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2017年6月15日 (木)

絶海の孤島に取り残されたら。

 "Passengers"(2017、流した、××)なる映画を出張の機内で見ました。(ああ、6月長いとかほざいてましたが、あの記事書いた直後に、また出撃命令が下りました。戦況は思ったほど芳しくないのです・・・)

 あと、観た映画にあたしの「愛」がない場合、他の人にも観てほしいとか思わない場合、この記事もそうであるように、全編ネタバレとなります。

 島に主人公がいる瞬間に「無人」ではない、「無人島」ではないだろう、というのはアメリカンの風刺(一コマ)漫画収集家でもあったサイファイ作家、故・星新一氏の指摘でした。その代わりに「離れ小島」とか「絶海の孤島」とか、異なる呼び方を推奨していた。

 無人島、もとい孤島漫画とは、ご承知の通りヤシの木一、二本くらいしかない小さな島(というか海洋法上は間違いなく「島」ですが、面積は小さいもので四畳半くらいしかない)に漂着したヒトひとり、またはふたり以上、あるいはヒトとなんらかの生き物(サルとかカニとか宇宙人とか!)が登場する(それらの痕跡だけが示される場合もある)、一コマ漫画を指す。

 シチュエーション的には、もちろんロビンソン・クルーソーが「原型」。映画でいえば、トム・ハンクス主演の”Cast Away”(2000、流した、×)を思い出されるとよい。主人公の相棒は生き物ですらない、ヴァレーボールたったひとつでした。

 ヴィデオ・ゲームなら、シリーズ最新作「イースVIII」。主人公が絶海の孤島に流れ着く設定でした。そこは特殊な海域にあるため、外部からの救出は期待できない。ただし、主人公と同様に漂着した者も多く、「孤島」は実は相当大きなものであったこと、主人公たちを除いても島は「無人」ではなかったことがのちに判明する。そうした「漂流仲間」(運命共同体)と一緒に、島の素材や漂着物を活用してコミュニティーを築き、最終的には脱出用の船を建造するのが主人公たちの方針。趣は「ロビンソン・クルーソー」よりは「蠅の王」や「十五少年漂流記」に近い。

 一コマ漫画に限らず、「孤島漂着」というモチーフの作品が、(大航海時代を知る)欧米作品にとても多く、一方で島国では(欧米のパクリを除いて)ほぼ皆無ということも、あたしがかねてから言っている、「島国は海洋国家ではない説」を補強すると思います。島国は、せいぜい「浜辺国家」です。カール・セーガンの「コスモス」の前ふりではないが、島国人はいつまでも浜辺の砂遊びばかりしていて、目前に広がる果てしない(ようにみえた)大海(太平洋)に乗り出す意志も力もありませんでした。日本海側およびヴェトナム、シャムなど相手の南洋の交易は、「流行した」それぞれの時代にしてみれば遭難続出の難事業ではあったとはいえ、目的地があることがはっきりわかっていた。
 ここでさらに島国の民は現実主義者(リスクテイカー、riskとは損得計算可能な「不確実性」を指す)であって、理想主義者(アドヴェンチャラー、ventureは損得度外視の「冒険」、adventは「到来」、大文字では「ジーザス降臨」)ではなかったし、なる必要も感じていなかった、といえるかもしれません。

 孤島漫画(あるいはロビンソン・クルーソー)の「世界には自分一人(あとサル)しかいない」という設定自体が「哲学」的なので、内容もそうかというと、圧倒的多数が「政治・社会(風刺)的」なもののようです。つまり、世界(人類社会・文明)を外側の視点から冷たく見つめ、(漫画なら)笑い飛ばすというモチーフで貫かれている。

 あたしの大好きな一コマ漫画“Far Side”でも、「定番」の孤島ネタは少数とはいえカヴァーされています。作者は原始人ネタやどうぶつネタが大好きな人で、それだけでも「文明風刺」作家であることがわかります。

Whiner
 「孤島タイムズ」は、新刊第一号を世に出しただけで倒産した。
 『ネッドはめそめそ屋』

Someone_else_6
 「えっ、誰かに会った? 何の話だ? ああ畜生! もう付き合ってるんだな!」

 長々と前ふりしている理由は、もちろん、映画自体の論評がすぐ終わってしまうから。

 ME:Aがあれだった「絶望」に苛まれ、ぐれて呑んだくれていた頃、ふとネットを見たらこの映画“Passengers”のBD/DVDを見つけた。Amazonプライムでも有料でもオンラインでは観ることができない。ME:Aより上出来ではないのかと気になって仕方がなかったので、本家Amazonに注文しようかと思ったほどだ。

 ME:Aのときも触れましたが、元の世界に二度と戻れない600年先の「未来」に飛び立つ動機がまったくわかりませんでした。有史以来の例を探しても、欧州「半島」に二度と戻るつもりのなかったピルグリム・ファザースの事業くらいなものでしょう。ほかの大航海事業は、必ず戻って「利益」を生むことが目的でした。あるいは囚人の大量島流し。

 映画は、冷凍睡眠中の5000人以上の乗客および100名足らずの乗員を搭載した宇宙船が、120年後に到着する予定の植民惑星、“Homestead II”を目指して無人航行中であるところから始まる。

 旅立ちから(地球時間で)30年経過したところで、宇宙船は隕石群との衝突事故に見舞われ、誤作動が生じ、主人公の男性たったひとり(名もない機械工)だけが強制覚醒されてしまう。目的地まで残り90年。30代半ばの主人公の寿命を考えれば、生きてたどり着ける可能性も、他の乗員乗客が覚醒した時に生きている可能性もない。しがない一乗客でしかない主人公は、他の乗客をたたき起こすなどの、宇宙船(搭載AI)に指示を与えるいかなる権限も与えられていない。実際、宇宙船内のほとんどの制限区域には立ち入れない。

 地球に救援を求める通信を送ろうとしても、貧乏主人公にとってありえないくらい高額な「通信料」を請求され、自分が生きている間に助けが来る見込みもない。(なんで120年後に到着した植民惑星でも地球と同じ経済システムが通用しているのか、どうして地球の貨幣(デジタル・トランザクションであっても)が同じ意味を持つのか、映画では説明はすっかり無視されているが、まあご愛敬)

 相棒は、なぜか稼働しているバーテンダー・アンドロイド(AI)のみ。バーテンダーはバー(文字通りのbar、島国でいうバー・カウンター)から移動することができない。酒を供すること以外できることは、呑んだくれたお客の愚痴を聞いて、(会話DBから見繕った)小洒落たセリフを返すだけ。(つまり、バーテンダーは主人公にとってのサル(フライデー)であり、またはヴァレーボールと同じ役割である)

 衣食住は(なぜか居住システムがフル稼働しているので)足りている。あたかも絶海の孤島に取り残されたかのように、たったひとりで余生をいかに過ごすか。ここは、哲学的な香りが漂うのかなーとちょっとだけ期待したのです。でもAI相手にバスケットボールしたり、呑んだくれたりするだけでは、予想どおり1年(地球時間・船内時間)もたなかった。

 果てしなく自暴自棄になったころ、船内DBで記録映像を目にした美女、地球では小説家であったらしい女性に一目ぼれする。冷凍睡眠装置のメインテナンス・マニュアルを見つけ、映画的には多少苦悩したようなシーンもあって、結局(わかりやすく)、その「眠れる森の美女」を強制覚醒してしまいます。

 あちらの「インテリ」レヴュアーがおおむねこの映画に冷淡(低評価)なのは、当然主人公の行動が「邪悪」であるから。「倫理に反する」から。形式的には、略奪、強制的な拉致監禁そのものであるから。
 主人公の「悪行」の真相は、本人とバーテンダーAIしか知らない。もちろん「邪悪」も「倫理」も理解していない、クリスチャニティーの「原罪」なんか知ったこっちゃないAIは、主人公が女性をすけ込ますのに全面的に協力します。インテリかつ美形、地球では小説家としてセレブであった女性と、油まみれの機械工の恋愛。階級を超えた愛、「格差」問題を匂わせたかったのかもしれないけど、これは成功していない。

 彼女とまんまといい感じになったところで、結局、バーテンダーAIが口を滑らせ(笑)、女性は逆上します(あたりまえだ)。短絡的に考えたって、「人生を強奪された」くらいはわかる。
 破局(という言葉も笑っちゃいますけど)を迎えた主人公たちの宇宙船を、ラッキーなことに別の誤作動が襲う。今度はセキュリティ・ステータスの高い乗員(クルー)のおっさんが覚醒してしまう。
 なんやかやあって、事態は急を告げる。最初に誤作動をもたらした隕石事故が原因で、宇宙船はこのままでは航行を完了できない(つまり遭難する)という事実が判明する。冷凍睡眠装置の誤作動によるものか、おっさんの身体は致命的なほど蝕まれていた。おっさんは事切れる直前に、主人公たちに船内の制限区域も利用可能となる、ほぼオールマイティーな「マスターキー」を手渡す。制御システムへもアクセス可能となり、(一介の機械工が!)宇宙船を修復する。

 それから88年後。目的地に到着した宇宙船は、残りの乗員乗客を冷凍睡眠から覚醒させる。船長(アンディ・ガルシア! 出番みじか!)たちが目撃したのは、船内にあるはずもなかった大きな樹と、何十年にもわたって誰かが住んでいたらしい住居跡だった。最後に、覚醒が早すぎた女性がずっと語り続けてきた、ふたりの暮らしぶりについての記録映像が見つかる。

 あたしが不満なのは、レヴュアーたちが「倫理的によくない」と決めつけている部分ではない。あたしだって主人公くらい若ければ、自暴自棄になったら同じことをするかもしれない。だって「眠りの森の美女」がジェニファー・ローレンスですよ?! 逆に言えば、このお膳立ては、「倫理的」には、つまり「哲学的」には、とてもいいところをついたネタなのだと思う。問題は、そのこと自体に作り手が気づいていないのではないか、と疑われるところだ。

 不満なところは、第一に、この女性が、男性の意図も事情も知らないとはいえ、たった一人しかいない男性を、「たった一人しかいない」という理由で愛するのか?というところ。ここがどうにも理解できない。男性側には、邪悪でも倫理に反するでもなんでもいいけど、「選ぶ」権利があった(ひどい話であるのはわかってます)。選んで、この女性を覚醒させた。女性側には選ぶも何もない。本当にひどい話はこちらではないのか?(インクルーシヴィティ亡者にすれば、レズビアンだったらどうする?!とかわめきたてるだろうが、それはおいておく、というかそんな話する必要もなく、すでにひどい話であるのだから)

 好意的に解釈すれば、運命共同体としてたった二人しかいないのだから、とりあえず連帯するのはヒトとしての務め。倫理的にという意味でなくても、話し相手を求めるのはヒトのさが(AIではやはり不満だろうか)。慣れ親しんでいくうちに恋愛感情になる、ということでしょうか。それで(この、2017年の)世の女性たちは納得するのだろうか。納得するなら、それもひどい話としか思えない。

 その延長上で、どうして女性には、自分の人生を奪った男性への「殺意」が生まれなかったのだろうか。男性はすでに「倫理」にもとる行動をとっている。どうして女性は「倫理的」なままなのか。真相が暴露された後、女性は一時凶暴になる(当たり前だ)ことは示されるが、あとはただ男性に対して「自分に近づくな」と命じるだけだ。
 または、男性に(お前は気に食わないからという理由で)ほかの男性(女性でもいい)を覚醒させるよう迫ることはできなかったのか。それも当然「倫理に反する」からできないのか。

 誰かを覚醒させるためには、ふたりが何十年も嘘をつきとおす覚悟がいる(AIがまた口を滑らす可能性もある)。そうでなければ、強制覚醒された相手に殺意を抱かれて殺されてしまう可能性は十分ある(繰り返すが、二人の間でそれがないほうがおかしいと思う)。また、あまりいっぺんに大勢覚醒させると、暴動が起きてしまって大変なのは言うまでもない。

 最後に、なぜふたりは子供を残さなかったのか? 親が死んでしまったら取り残された子供(たち)が孤独になるから、というのがもっともらしい理由として思いつく。逆にこの状況で子供を作ること、それこそが自己中心的な「倫理にもとる」行動だと考えたのか。理由なく単純にそうしたくなかっただけなのか。理由はなんでもいいし、端的になくてもいい。そういう説明もない。なぜかここだけは、インクルーシヴィティに配慮したのかもしれない。

 一言で言ってしまえば、せっかくの「孤島漂着」というお膳立てから色々と思いつくはずのシヴィアなネタを、この映画は全部見逃し、ふいにしている、逃げているのだ。上に書いたように、本当に緊迫してのっぴきならない状況になったとき、真剣に突き詰めて考えなければならないところで、やれマニュアルが見つかった、やれ仲介者が現れた、やれマスターキーを手に入れた、と茶々を入れる。書き手(作り手)側が、自分たちで作り出した緊張に、自分たち自身が耐えられなかったとしか思えない。

 結果、ジェニファー・ローレンスが出演するにふさわしい、メグ・ライアン風ただのラヴ・ロマンスもどきになってしまった(ラヴ・ロマンスでさえないと思う)。ジェニファーも、これは話が違うと怒っていい。

 あー、はいはい、女性が観ないと映画なんて流行らないんですよね?
 そう思って制作したに違いないこの映画は、その女性を盛大に冒涜しているのではないのだろうか。

 監督は、あのエニグマ暗号解読に功があったとされるチューリングの半生を描いた”The Imitation Game”(2014、流した、××)を撮った人。あの映画についても過去書きましたが、「頭割れるほど考え抜いた数学の大天才を、頭に蜘蛛の巣はって腐っちゃうくらい使ってない凡人どもが描いた、たとえようもない凡庸な映画」だった。ちなみにチューリングは、オックスフォード時代にヴィトゲンシュタインの講義も聴講していた人で、そのヴィトゲンシュタインから、チューリングの前で数学について言うべきことはないと言われたくらいの若き大天才だった。

 では脚本家に期待できるかというと、あの“Prometheus”(2012、流した、×)の脚本書いたうちのひとり。うーん。シリーズ最新作”Alien: Covenant”(2017、観ていない、×)ではさすがに外されたようで、今度の脚本家のひとりは“Green Lantern”(2011、観ていない、×)の人。ううーーん。でも、この次に記事にするつもりの“Logan”(2017、流した、○)も手掛けたようで、ちょっとだけ期待していますけど・・・。“Alien: Covenant”のもうひとりの脚本家は、“Transcendendance”(2014、怒った、××)の人。もおおおん。この表題の「超越」って、何に対してそうなのか、観客の理解の範囲も我慢の限度も超えたという意味なのか、いまだに謎(エニグマ(笑))。というか(一部ユダヤ作家を除いた)アメリカンには「疑似」であっても哲学は無理と確信した映画でした。

 世渡りうまい人じゃなくて、頭割れるほど考えてる人が撮らねえのかなあ。でもハリウッドじゃいかにも嫌われそうですよねえ。アメリカンの自称「インテリ」が、口半開きのドナルドのことを嫌いなのは、あれが奴らの「鏡像」だからなんでしょうね。マイケル・ムーアとか見てるとわかるじゃん。

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