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2017年5月28日 (日)

インクイジター・イノウエ

 遠藤周作にはなんの思い入れもなく、中学か高校の教科書で、かの「沈黙」のごく一部を無理矢理読まされた以外、著作もほとんど読んでいません。
 江戸時代初期、クリスチャン(切支丹)弾圧で悪名高い絶東の島国へ、ミッショナリとして送り込まれたイエズス会(the Society of Jesus)のポーチュギーズ修道士(Jesuit)の主人公は、自らが囚われた牢の隣から聞こえてくるイビキに似た音を、居眠りしている衛視のものだと勘違いしてしまう。すぐにそれが、棄教する(apostatize、アポステイトとなる)よう迫られる隠れクリスチャンが拷問にあえぐ声であったことに気がつく。そのパラダイム・シフトがそのテキストの「売り」、感動せよと迫る核心部分であったことは覚えている。

 クリスチャニティについてろくなことを教えず、踏み絵が偶像崇拝禁止のかの宗教信仰とどうコンプロマイズするのかも教えず、鎖国の意味すら適当にしか教えず(そういえば、これからの教科書に「鎖国」そのものがなかったように記述せよと迫る歴史改変運動があるようだ)、それでいったい何を感動せよと迫っていたのかも、腑に落ちるという意味では全く「理解」できませんでした。教室で、優等生がわかったふりしてスラスラ模範解答を述べるのを、へええと聞いていたくらいしか覚えがありません。もしかしたらヘラヘラ模範解答を述べていたのが、かくいうあたしだったとしても不思議はない。

 その「沈黙」をベースにした、Silence(2016、流した、×)を機内でやっていた。島国ではすでに公開されていたそうだ。カソリック神父志望だったスコセッシ監督が三十年来暖めていた企画とのこと。また白人が(クリスチャンが)、島国差別を盛大にやっているのだろうと決めつけ、けんか腰で観てみました。以下、映画全編のネタバレがあります。

 インクイジター・イノウエ(筑後守、長崎奉行)の演技は「異様」で、おそらくあちらではそうであるが故に受けているのだろうと思いました。あちらの色々なレヴューを読んでみると、その予想に間違いはありませんでした。どこかのレヴュアーが毒蛇コブラに喩えて書いていたように、観る相手に恐怖と、同時に一種のコミカルさを感じさせる笑みという評は、イッセー尾形を知る島国人からすれば別段突飛な話でもない。残念なことに、コブラは島国には自生していないのですが。また別のレヴュアーが書いていた「信仰とは何かを語るべき映画で、棄教を迫るインクイジターの好演がまっさきに話題になること自体、大問題だ」という評にもかなり頷けます。インクイジターとその手先である通辞(通訳)が目立つ一方で、主人公たちポーチュギーズがまるで冴えない、との批判です。

 ところで原作では、イノウエ自身が(そして通辞も)かつて切支丹であったはず。しかしながら、劇中ではっきり触れていたシーンも、微かに仄めかすシーンもなかったと思います。あちらのレヴューを何本か見繕って読みましたが、話題にしているところはなかったので、おそらくそうだったのでしょう。

 ネトウヨ的思考停止でわめき散らすのも、自称リベラル的博愛主義で絶賛するのも、例えばあたしにとっては造作もないことだと、観終わってから思いました。島国は野蛮人の巣窟であると差別主義的に決めつけているという論拠から非難するのも、だからこそその化外の地への布教を厭わなかったイエズス会修道士の勇気(注)を褒め称えるべきだと主張するのも、やれといわれたら容易にできそう。

(注)イエズス会こそカソリック世界制覇の尖兵、教皇の親衛隊、DAテンプラー騎士団のような存在。現教皇(ローマ法王)は、稀に見るバチカン初のイエズス会出身です。
 野蛮な軍隊(サムライ)が支配する絶東の島国なんぞに、好んで宣教に赴くこと自体、教皇の軍隊であるイエズス会以外の組織では行いえなかったのでしょう。

 そのような他愛もないことは本質ではありません。どちらかの立場にたって喚き散らせば済むような話だったら、わざわざここまでして映画にする必要もない。
 ただし、ひたすら沈黙している神の話としても、「沈黙するしかない」語れないものの話としても、この映画は不可解なところが多い。撮っているスコセッシが、ご自分で何をやっているのかわかっていないのではないかと疑われることが、この映画の問題でしょう。

 冒頭は、クリスチャンにとって皮肉めかして選ばれたと感じられる、島国では「地獄」と呼ばれる雲仙岳での切支丹拷問シーン(劇中島国とされる場面のロケ地は台湾だそうだ)。すぐあとに続くリスボンの教会のシーンは、いわば神の摂理に即した様式美の世界であり、そこでは世界は「正しく」規格化されている。ところが、この意図的な「混沌」(地獄)と「秩序」(天上)の対比は、あっさり見逃されそうなくらい弱い。確認のため二回目とばしとばしで観たときに気がついたものの、そうでなければ、その後くどいくらい何度も繰り返される拷問シーンに辟易してしまって、忘れ去っていたかもしれません。

 西欧商取引の理が機能するマカオの短いシーンを経て、舞台が島国に移る。そこは、かつてジーザスそのお方が、自ら教えを広めようとされたような不毛の土地です。少なくとも主人公と、同行するもうひとりのミッショナリの目にはそう映り、あきらかに聖書に由来するようなシーンもそれを裏づけています。デウスの教えを現世救済(ご利益)と勘違いしている、島国切支丹たちとのちぐはぐなやりとりも確かに可笑しい。

 映画は、島国の信者たちが何ゆえにクリスチャニティーを信仰するに至ったか、ほとんど語りません。百姓たち(ここは文字通りの意味で、もちろん漁師たちも含む)は、その命など意に介さない支配者から、現に畜生のように扱われているということしか示されない。おそらくそれは賢いやり方なんでしょう。身分や階級のせいで虐げられているとか、独裁者の圧政に苛まれているとか、何かもっともっらしい理由を語った瞬間に、信者たちの信仰の切実さも、ミッショナリたちの勇気の意味も、すべて矮小化され、世俗化され、どうでもよいものに変わってしまう。信者は、ただ信じるがゆえにひたすら信じる。

 人が理由なく信じること自体を放棄させるのは、強大な為政者であっても困難です。一方、面倒だから信者たちをさっさと殺してしまうことは、積極的に殉教者(martyr)を生み出すことになる。残された者たちの信仰がさらに深まってしまう。結局処刑してしまうとしても、アポステイト(棄教者)となったことを他信者を含む世間に示したうえで、そうしなければならない。そこで島国の発明品である、島国以外で用いられたことはなかった「踏み絵」が登場します。

 聖書で偶像崇拝を禁じているはずのクリスチャニティーの信者が、何ゆえただの鋳物(踏み絵)を踏むだけで「転ぶ」ことに、棄教することになるのか。カソリックでは偶像崇拝を認める妥協が成立していたのでした。彫像、聖餐、ロザリオ、クロスなどの「もの」(アイコン、イコン)に頼るシンボリズムを捨てきれなかった。布教活動というマーケティング上(異教との競争上、および習合の必要上)、そうせざるを得なかったのかもしれない。その結果、内心の信仰と行動(善行)の間に区別をつけるという欠陥を生み出してしまいました。
 この島国を支配する猿は、悪魔のようにずる賢く、その点を巧妙に突いてきた。当時のクリスチャンから見れば、そういうことなのでしょう。

(余談ですが、プロテスタンティズムでは一般に、偶像禁止を厳格に守り、かつ善行ではなく内面的信仰が、それのみが重視されます(信仰義認)。行為義認重視であった教会に対する批判(宗教戦争)や、科学の発展に伴って「天上」の存在が否定され、神の居処は個人の「心の中」と考えられるようになった時代的背景も影響するようです)

 聖書によれば、偶像を禁止したのはモーゼズ(モーゼ)の神でした。ジーザスが語ったとされることは、例えば「シーザー(カエサル)のものはシーザーへ返せ」。(シーザーの横顔が刻印されていた)現世の貨幣などは、どうでもよいものなので、現世の王に返せばよい。
 一方で、内面の信仰と行動を切り離しても良いなどとは、聖書のどこであっても語っていない。むしろ善き行いこそが優先されるべきという教えはあります(善きサマリアンの喩え)。

 ただの鋳物を踏むことなどは、善行かどうかなどとは関係なく、信仰にとってはどうでもよいことではないのか。むしろ、自らの信仰を守るためだけの理由で踏み絵を踏まず、結果として他の信者が拷問され、処刑されることはどうなのか。ジーザスなら、どう教えを垂れただろうか。 

 インクイジターたちが執拗に搾取(エクスプロイト)するこのジレンマ。賢くもそれに気がついていたのではないかと仄めかされる二人の人物が登場します。ひとりは、主人公のかつてのメンター、恩師であり、一足早く島国の布教活動に取り組み、弾圧の結果、棄教し、帰化し、妻帯したと伝えられるポーチュギーズの神父。もうひとりは、切支丹迫害にあって、踏み絵を踏んだにも関わらず自分以外の家族を皆殺しにされ、その後はアポステイト(裏切り者)として、信者からも支配者からも蔑まれ、疎んじられる島国の漁師。

 神父は、おそらくは主人公と同じ苦悩の末に、おそらくは主人公がやがて辿り着くであろう「答え」に先に辿り着いたと思われます。
 漁師は、支配者から求められれば、何度でも簡単に踏み絵を踏む。もはや、踏み絵がなんの「スイッチ」でもないことを知っている。
 そしてふたりとも、その信仰はまるで揺らいでいないことがそれぞれ仄めかされる。

 それ以外の信者は、主人公を含めて「形」が意味を持つという思い込みに縛りつけられ、苛まれる。インクイジターたちが説得に用いるのがこの思い込みの部分であり、作中で拷問される切支丹たちも、のちに自らも棄教を迫られる主人公も、踏み絵を「形だけ」踏めば許されると何度も何度も説得される。

 「形だけだ」("It is just a formality.")

 この映画が語るべきことは、不在の神の話でも、沈黙の神の話でもなく、おそらくこのジレンマだけでしょう。
 貴族(ミッショナリを含む高貴な誇り高き者たち、「美的」な者たち)にとって、殉教はむしろ任務達成を意味する救いである。主人公の同行者であったミッショナリは、信者を拷問から救おうとして殉死します。ここではジーザスの行いを含意している。また主人公の元メンターは、「形だけ」棄教するものの、内面では間違いなく信仰を続けている。
 奴隷(一部の百姓たち、「宗教的」な者たち)は、信仰以外何ひとつ手にしていないのであるから、弾圧で処刑されるとしても、喪うものは命以外に何もないし、その命こそが不幸と苦難の源泉である。何度も何度も踏み絵を踏まされる漁師も、家族を皆殺しにされているのであるから、これ以上喪うものは何もない。もはや内面の信仰に変わりはありません。

 これらの者たちにとって、神と自分以外に介在する第三者、「他者」はありません。高貴なる者は自らの存在以外に拠り所を必要としない。奴隷には、神以外に拠り所がない。まったく違う動機づけでありながら、「他者」を意に介さない点に違いはない。

 ところが、平民(主人公や大多数の百姓、「倫理的」な者たち)にとって、この両者の「開き直り」は理解できない。インクイジターの手先から、村長とともに拷問を受ける者を差し出すよう命じられた村人たちは、その難を逃れるために、よそ者であり、アポステイトである漁師を生贄に選びます。踏み絵を踏まずとも、村人たちの信仰はすでに破綻していることがわかります。

 主人公は、自らの棄教を迫るインクイジターが見せしめに拷問する信者たちに対して、棄教するよう叫びます。「転ぶ! 転ぶ!」(転べ、と叫ぶべきところでしたが、命令形活用がまだわからなかったという意味だったのでしょうか)
 どうして、ミッショナリである自分は信仰を守るため棄教を拒否していながら、同じ信者である村人たちには、拷問と処刑から逃れるために棄教を勧められるのでしょうか。ミッショナリは一般信者とは違って特別なのでしょうか。ポーチュギーズと野蛮人とでは違うのでしょうか。百姓を家畜同然に殺すインクイジターと、主人公は何が違うのでしょうか。  

 彼らは「意味」を求める。現世救済であったり、他者の称賛であったり、世間体であったり色々あるとしても、神と自分以外の第三者が介在する。
 自分であっても、他者であっても無駄死には避けたい。でも、「無駄死に」とはなんでしょうか? 信者を救おうとして海中に飛び込んで溺死した同僚は無駄に死んだのでしょうか? 信者を救うため、気も狂わんばかりの苦難を経て踏み絵を踏んだ恩師は、信者たちの「無駄死に」を避けるためにそうしたのでしょうか?

 そこまでわかれば(というか考えが辿り着けば)、残りの二時間近くは、冗長以外の何ものでもない。ここまで考えさせられたのも、映画そのものではなく、その断片から「読んでもいない」原作を想像したおかげです。冷静に考えれば、褒めるべきは原作のほうなのでしょう。
 神の「沈黙」を表現したのだと言い訳しようとも、映画は端的に長すぎるし、聖謐を感じるシーンはほとんどない。皮肉なことに、主人公が棄教した後の生活にこそ、静謐のときが訪れます。

 なぜ島国にクリスチャニティ―が根付かないのか(そして21世紀の現在でも根付いていないのはなぜか)という問いについて、主人公とインクイジターの間で、最後には主人公とかつてのメンターの間で取り交わされる問答も、いたって教科書的で表面的なものです。

 クリスチャニティ―は「毒」(poison)である。この島国はクリスチャニティーにとって「湿地」(swamp)である。原作が発表された1960年代であれば、無垢でいたいけで、クリスチャニティ―についてカンペキに無知であった島国人たちは感動しただろうし、数少ないとはいえ欧米のインテリから絶賛されたことも頷ける。ところが、スコセッシが映画化を考え始めたという30年前(1980年代末)でももはや陳腐化していたのではなかったのかと思ってしまうその喩えを、21世紀にあらためて持ち出されても困るしかない。
 西葡英蘭という、植民地支配競争に明け暮れていた当時の列強四国の、どれひとつとも島国は「結婚」しないという喩えも、どのくらい効果的だったのだろうか。

 そこまで言うなら、原作読めよ?

 ネタバレすると、ちょうど永井均氏のニーチェに関する本を読んだところなので、それをタネ本に書いてしまいました。詳しい方なら、ニーチェの貴族的、平民的、奴隷的というものの言い方は、キルケゴールの美的、倫理的、宗教的というものに対応していることがお分かりになるでしょう。
 申し訳ありませんが、こちとらこれからそちら方面の本を読むのが楽しみなんで、狐狸庵先生(遠藤周作)の本は、老後にでもとっておきます(きっと嘘だけど)。あと、頭悪いネトウヨが間違うといけないので、「狐狸庵」は遠藤周作が「こりゃあかん」と怠惰な自分を戒めた言葉である、と申し添えておきましょう。

***

"But everyone knows a tree which flourishes in one kind of earth may decay and die in another.It is the same with the tree of Christianity.The leaves decay here.The buds die."

 「だが、一処で実をなす樹が、別の土地で立ち腐れて枯れるのは知られたこと。クリスチャニティ―の樹も同じであろう。ここでは葉は腐る。蕾は枯れる」

―― Silence (2016)

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