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2016年11月29日 (火)

主人公の「発見」

 産経新聞に毎月掲載される石原教授の「文芸時評」。
 個人的に見逃してはならないと考えている数少ない記事ですが、「古典的」な作品ならともかく、最近の島国の小説は(一部ラノベを除いて)まず読みません(笑)。
 悪いがこっちもそこまで暇ではない。
 
 アップデートな文芸情報を知りたいとか、そうではなく、業界のいたるところに喧嘩をふっかける教授のレネゲイド振りが清々しい(だから掲載紙が産経なのかもしれない)。特に「芥川賞」など文学賞受賞作(あたしは決して読みませんが)の選評に対する情け容赦ない攻撃が素晴らしい(たとえば数か月前の「コンビニ人間」の選評に対する記事)。そして毎回ではないが、今回のような「あっ」と気づかせてくれるネタもまた期待しているわけでして。
 
http://www.sankei.com/life/news/161127/lif1611270028-n1.html
 
「日本文学は主人公という概念を持っていなかったから・・・」。
 
 きましたねえ。「主人公の『発見』」ですねえ。ここから「島国製RPGの主人公論」につなげることはたやすい。もう、わざわざ書かなくてもいいくらい(笑)。ま、ちょとだけ書くけど。って、ちょちょ、帰るのは早い、ちゃんと書きますって!
 
 P5を例にとれば、島国伝統(発祥ではない)の「無言の主人公」をいまだ貫いていることがわかる。 実はBioWareのDAシリーズも、DAO(2009)までは(BGの流れを汲んで)「無言の主人公」(The Warden)であったのだが、DA2(2011)では「雄弁な主人公」、固有名詞(ラスト・ネーム)は固定(Hawke)の主人公を導入したのであった。
 
 当時はオールドスクール派(守旧派・固陋派、あちらのRPG界の儒者みたいな連中、といっても「博士」のほうではなく、「腐儒」(腐れ儒者)、「陋儒」(あまちゅあ)、「似而非博士」(えせはかせ)、すなわち白眼視されるほうのあれ)が大騒ぎとなって、主人公が勝手にしゃべると「イマジネーションが損なわれる」とか、イマジネーションのかけらもないような奴らが叫び、ヒューマンしか選べないとはどういうことだ、Hawkeとはなんぞや、まるで和製アニメではないか、バカにするなと、言うに事欠いて人種差別まで織り込んで猛烈な怨嗟の声をあげたことも、もはやほとんど忘却のかなた。ちなみにあたしはオールドはオールドでも「オールドタイマー」(時代遅れのじじい)ですので、一緒にするな。
 
 そのオールドスクール派の包囲攻撃に、一人立ち向かったのは、今は亡き(死んではいない)ゲイダーさんであった。その孤軍奮闘ぶりは、カスター将軍の第7騎兵か、バストーニュのUS101空挺か、はたまたナム・ドンのグリーンべレーか。
 その屍を踏み越えて(死んではいない)、次回作DAIでも、種族によって異なるとはいえ固有名詞(ラスト・ネーム)を有した(DAOに回帰)、雄弁な主人公(The Herald/Inquisitor)が踏襲されることになった。
 
 オリジナルME(X360版2007、PC版2008)のほうがDAOより前にリリースされていて、かつ、主人公にはShepardという固有名詞がつけられており、かつ、めっちゃ喋っていたにも関わらず、DA2のような大騒ぎがなかったことこそ、オールドスクール派の無軌道、無節操、腐れぶりを証明しているのは間違いない。ごく簡単なロジックの流れからして、「ME? あんなのだめだめ、正統派RPGじゃない」という発想が奴らに支配的だったことは、容易に演繹されるであろう。(また、当初X360版のみのリリースであったため、オールドスクール派ともろ被りしていた「PC至上主義者」たちの怒りを買っただろうことも、十分に推測できる)
 
 さて、教授が引いている坪内逍遥の「小説神髄」だが、「主人公の設置」のところだけ読んでも、あんまり(この記事の)得にはならない。とはいえ、ものはついで、取り敢えず引用してみましょう(岩波文庫版)。
 
(引用はじめ)
 主人公とは何ぞや。小説中の眼目となる人物是れなり。或ひは之れを本尊と命(なづ)くるも可なり。主人公の員数(かず)には定限なし。唯一個(ただひとり)なるもあり、二個(ふたり)以上なるものあり。されど主人公の無きことはなし。蓋(けだ)し主人公欠けたらむには、彼の小説にて必要なる脈絡通徹(みゃくらくつうてつ)といふ事をばほとほと行ふを得ざればなり。
 主人公に男女(なんにょ)の別あり。男性なる者を男(お)本尊といひ、女性(にょせい)なる者を女(め)本尊といふ。それ小説は人情を語るものなるから、おのづから男女(おめ)の相思を説かざるを得ず。是れ小説に男女の本尊ある所以(ゆえん)なり。(引用おわり)
 
 一読されれば、何を今更、全部当たり前ではないか、そうお感じになるのではないか。お感じにならないお方は、存外小説なぞ読まれたこともないのでせう(なんで、あたしまで旧かなづかひ?)。
 
 なおここでいう「脈絡通徹」は、今でいうプロットのコヒレンシー、コンテニュイティ、コンシスタンシー、つまり首尾一貫の意味に近い。著者はこれに大変重きを置いている(今となっては当たり前のことですが)。また「人情」は、情欲に限らず、広く煩悩全般を指し、小説の主脳(主眼)とはこれを活写することにあるとしている。
 
 明治十八年から十九年にかけて九分冊で刊行されたこの著作は、この島国の物語について、それまでの馬琴に代表される荒唐無稽な(主として勧善懲悪の)戯作の世界から、人情と世態(世情風俗)を活写する近代の小説(novel)へと改良進歩を企て、ついには欧土(ヨーロッパ)の小説を凌駕し、音楽、絵画、詩歌と並び称される美術の先頭に立たせようという、意気込みの現れであった。
 
 維新の時代に一時期衰えを見せていた小説は、この頃復興して全盛期を迎え(活版印刷テクノロジーの普及が理由という説あり)、夥しい数が出版刊行されていたが、その類は、専ら陳腐(ふるめか)しく、過去の作品の糟粕(のこりかす)、贋作(ぱくり)か翻案(こぴぺ)。当時の知識階級は、稗史(小説のこと)なんぞ「アホらしくて」読むに堪えないと眉を顰めた。これではいかん、アタリ・ショックが来てしまう、この著作は、そういう危機感の現れでもあった。
 
 残念なことに、石原教授のいう、「日本文学は主人公という概念を持っていなかった」というテーマが直接参照できるところは次の一か所のみ。
 
(引用はじめ)我が国の小説には主公と主公ならざものとの区別判然せざるも多し。(引用おわり)
 
 むしろそのとおり過ぎて、詳しく説明する必要もない、と考えたのだろう。よって上の引用文にもあるように、(小説には)「ヒーローとヒロイン(その少なくともどちらか)が登場するのです」なんて、今どき小学生でも知っているようなことまで、わざわざ断らなければならなかった。
 
 などと、調子に乗って引用文で中身を膨らまして書いていたら長くなってきた。RPGの主人公については、次回に。
 とは言っても、あたしは明日からまた出張だから、さっさと考えをまとめる気ではいるのですが、次回はいつになることやら。 (あれ、書くまでもないとかいってなかったっけ?)
 
 なお、RPG(という物語形式)とは直接関係ありませんが、教授が記事内で「物語的主人公」と「小説的主人公」に区別することを提案している二類型について、あたしは大昔に教師から、「劇的小説」と「つぶやき的小説」に区別できる、と教わったことがある。完全には重なり合わないが、かなり似た発想に基づいているのではないかと思った。
 
 また、最後の方で大森望が出てくるのはどうでもよいのだが、むしろあたしが気になってはいたものの手に入れずじまいであった「日本語に主語はいらない」という著作について、教授は条件つきながら「示唆に富む好著」と評している。そのまさに「条件つき」の部分にも、こちらは共感するのでした。曰く、「『英語は主語を明示しなければ動作主がわからない、なんて不便な言語だろう』と感じるところまでいかなければ。」
 この本を調べてみると、なんと2002年の刊行であった。どうして今、脚光を浴びているのか。あたしのAmazonのページのてっぺんには「推奨図書」としていつまでも載っている。
 こうなったら読むしかないのかもしらん。
 

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