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2016年11月 6日 (日)

二極じゃダメなんですか?(2)

 この記事は、前回の続きというか追加ですが、P5と関連はするものの、直接的な関係はありません。
 P5記事の流れを切りたくもなく、また表題を二回使いまわしすることも避けたかったのですが、大事な話なんで二回使います。ああ、「二回じゃダメなんですか?」でもよかったのか?!

 前回の記事で、「君の名は。」の内容を、たまたま同時期に出た、しかしいずれもあの大震災を契機にまたはモチーフに描かれているので「たまたま」ではないかもしれない作品群、「シン・ゴジラ」、P5、東京(略ザナドゥなとど並べて、何がどう違うのか(同じなのか)考えてみた。

 その際、新宿近辺を舞台としているこのアニメ映画は、渋谷を舞台の中心としていたP5とは異なり、いわば繁華街としての新宿が象徴している(現実との対比としての)「理想」の時代、または「夢」の時代を描こうとした作品ではないかと書いた。なおそれに対して渋谷は、(現実との対比としての)「虚構」の時代を象徴する場所であると考える。

 そして、最後に余談として、これらの元ネタのひとつである、社会学者・大澤真幸氏の「不可能性の時代」(2008年)という著作に示されている、今や「虚構」の時代さえも終わり、「不可能性」の時代への移行が始まっているのではないか、という主張を紹介した。

 出版から日もたっていない時期、すなわちかなり以前に読んだ本であるので、内容の詳細は忘れていたが、あまりに気になったので、前回記事を書き終えてから、もう一度パラパラとめくり、読み直してみた。

 その中に、2003年に大阪市で発生した、心中未遂事件の考察に関する部分を(再)発見した。十八歳の男子学生と十六歳の女子高校生が、それぞれの家族の殺害を計画し、そののちに心中を図ろうとした事件についての考察である。ふたりは交際中であった。
 恋愛が高じてのただの(古典的な)心中であれば、ふたりで死ねば済む。何ゆえふたりは、その前段として家族を殺そうとしたのか。

 1990年代あたりから増加してきていた、過去にない異常な種類の事件を紐解けば、表層的には伝統的家族関係(例えば家父長制)の崩壊という時代の流れが関係しているのではないか、と考えることができる。だが、心中を計画したふたりからすれば、家族そのものの「排除」が必要不可欠であったように見えるのだ。

 それまで家族とは、「必然的」なものであり、選ぶことのできない関係を意味していた。その家族関係が、(大澤氏によれば)「偶有的」なもの、たまたまそうであるもの、「他でもありえた」ものに変わった。
 家族関係が希薄化した、構成員の孤立化、個人化が進んだという説明では足りず、何か他の代替すべき関係が、必然として表れてきたと考えるしかない。それは、代替される親子関係以上に原初的なものでなければならないはずだ。

(一瞬横道に入るが、ここであたしは、かつて職場で一緒だった、美形だけど世間知らずでちょっとおつむの温い、女子連からもそこを見透かされていぢめられていた女性のことを思い出す。あたしがめったに読まない島国人作家のミステリー、宮部みゆき作「R.P.G.」(2001年)という作品を、彼女の代わりに読まされたのだ。女子連から「きっと彼女にはわからないだろう」と意地悪な予想とともに勧められたものだったらしい。昼休みに30分くらいで読んで、ざっくり「ここを指摘しとけ」と伝えて終わったあの作品にも、似たようなテーマが描かれていたと記憶している。間違ってたらごめん!)

 ここら辺の考察は、ぜひ前掲書をお読みいただきたいと思うが、大澤氏は「本来最も自然なものとして受容されるべき家族の内的な関係を偶有化してしまう別の関係」とは、「他身体が自身体に参入してくるかのように感受される、極限的に直接的なコミュニケーションではないだろうか」 と考えている。

 「他身体が自身体に参入してくる」、「極限的に直接的なコミュニケーション」とは、あのアニメ映画が描いた、精神のスワッピングのことであろう。
 そして、そういった(親子関係よりも原初的な)関係とは、ごく初期の母子の間身体的な関係がまさにそうであることも重要だ。
(お気づきのとおり、あのアニメのふたりの主人公は、いずれも母親を「欠いており」、それぞれの父親との関係も密接とは言えない。そして、母親を代替する役割(導き手、見守り手)として、男性には年上の親しい女性が、女性には同居する祖母が登場する。家族を描くのが面倒(邪魔)くさいから省略した、「親なし症候群」の作品ではないことは明らかだ)

 よって、あのアニメ映画は、単に「理想」の時代や「夢」の時代への回帰を目論んだだけではない。第一、それらの実現が不可能である可能性さえ作中で示されていた。それだけではなく、不可能かもしれない「夢」を「現実」のものとするために、従来にはないコミュニケーションの形を導入する必要があった。それが「入れ替わり」である。それが「たそがれどき」(かたわれどき)である。

 大澤氏の説に従えば、あの作品は、「理想」や「夢」を追い求めるために「不可能性」を克服する手段を導入した、ということができる。
 島国の多くの観客は、その「どこに」共感・共鳴したのか。
 作品は、台湾でも公開後にかなりの人気を博したという。どこで「受けて」、どこで「受けなかった」のか、興味があるところだ。

 最後に、前掲書からP5に関する興味深いお話も紹介しておこう。

 これもまた1990年代から急増したという、多重人格者に関する話題である。

 大澤氏によれば、「なぜ、人格が多重化するのか?」という問いよりも重要なのは「なぜ、人格が解離せずに統一的なままにとどまっているのか?」である。多重人格にならない一般の人は、その場その場に適した、子、友、親、夫、教師(上司)などの振る舞いを行っているだけであり、これらを貫く共通性などほとんどない。

 「これらの同一性とは、その都度の状況において私がまとう『仮面』であり、それゆえ『構築されたもの=虚構』である。多重人格者は、むしろ、こうした条件に、素直に反応しているのである」

 そのことは、多重人格者を観察する精神科医の眼から見れば、それぞれの人格に過度の演技性を見出すことができることから、明らかであるという。つまり、あまりにもステレオタイプなのである。よって患者の各人格が、社会的に構築された仮面であることが示されているのだ。

 その他、上述の各作品が契機またはモチーフとした大震災前の著作でありながら、あの核燃料発電所事故が恰好の例、研究材料となってしまった「リスク社会」 についても論じられている。やはりあの事故のインパクトを知ってから読めば、表面つらなぞっただけの議論はあまりに迫力を欠いていて、そこもまた興味深いのであるが、今回はやめておきましょう。

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