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2016年8月

2016年8月31日 (水)

そいつはいらねえだろう。

 せっかくの休みですから自宅でごろごろ、好きなことをしたかったのですが、小説「ハイ・ライズ」について色々書いてしまったので、映画も観なければなるまいと、渋谷結界内に朝早くから突入してまいりました。

 平日で早朝、滞留時間は映画の二時間プラスアルファ程度ですから、結界の力もなんとか乗り切れるのではないかと思ったのですが、やはりダメージは軽くなく、今、体中がしゅうしゅういっているので再生中です。

 たまたまサーヴィス・デイだったらしく、ネット予約したお値段は普通よりお安い。
 とはいえ、狭いスクリーンの五十ちょっとの座席はガラガラ。なるほど、上品な老婦人がひとりで観に来るケースが多いのだな、と社会見学にはなりましたが、そういうことこそが、結界の力の源でもあるわけです。

 そして「ハイ・ライズ」ですが、前半OK、後半観るに堪えない、という結果でした。原作の大筋こそ変えていませんが、色々設定は異なっていました。どうもそれも悪さをした要因のようです。

 前半は新築間もない高級高層住宅と、そこに入居したばかりの住民たちの紹介が続きます。登場する車両のモデルから推測すれば、ちょっと前の時代の設定でしょうが、ビルのデザインから、内装、家具、調度品、登場人物の衣裳など含め、すべてレトロ趣味で貫かれており、観ているだけでも楽しくなります。
(登場人物がタバコを吸いまくっていること、スマホやネットがないことから、どうやら隠し設定は70年代あたりらしい。原作が1975年発表ですから、それへのオマージュかな)

 ビル内に常駐しているスーパーマーケットなどは、50年代のサイファイが予想したかのような機能美溢れる「未来」のデザイン。"Fallout"シリーズのモチーフを、まるで地で行っている感じです(デザインは映画のほうが優れています)。

 そうして描かれた秩序が、当初は徐々に、最後には加速度的に崩れていく、というのが元のテーマだったはずなのですが、残念ながらその部分がよくわからないまま進行していってしまうのです。後半は照明も乏しい場面が多く、誰が誰やらよくわからないのも、置き去りにされた感爆発に一役買っている。もしかしてそれも意図的な企てだったのかもしれないが、残念ながら良い効果はあげていません。

 なにかの事件や事故がきっかけになり、それがドミノ倒しのように拡大していく。小説がそうであったので、同じようなことを期待していたのですが、ばらばらの事件がいくつかあって、「いつの間にか」全体がてんやわんやになっている。まあ、現実には(リアリティを言えば)そうなのかもしれないが、ドキュメンタリー映画じゃないんで、それやられちゃうとついていけなくなります。作中で(小説同様)、この騒動をドキュメンタリー番組にしようと企むTVマンが出てきますが、それもしっかりなぞってくれないからわかりにくいし、やがてほったらかしになる。

 主人公やその周囲の人物たちがどうして暴力や破壊に訴えはじめるのか、どうしてそれがエスカレートしていくのか。さらには、やがて食糧がなくなり、水道、電気などの基本的なユーティリティーも欠いた状態になっていくのに、どうしてこのビルに留まり続けるのか。
 原作にだって、そんな説明などあまりないのですが、映画ではさらによくわからない。

 上層階が富裕階級、下層階が庶民階級、中間は、大学で解剖学を教える主人公を含むインテリ階級。それは原作と変わらないのですが、少なくとも原作では、それぞれが「なぜ嫌い合うのか」、「なにを理由にいがみ合うのか」は丁寧に描かれていました。映画のほうは、たしかに二、三の理由は示されるが、それだけで理解するのはちょっと無理がある。二時間に押し込めるのは難しかったのだろうか。それとも、階級社会そのものに生きるブリッツにとっては、階級、趣味・教養、言い回し(colloquialism)から当然わかるので説明不要、ガイジンには理解困難なんだろうか。そう言えば、登場人物のエスニシティも、白人に相当偏っていた気がする。

 主人公がなぜわざわざひとりでこの高層住宅に住むのか。その設定が原作と異なる。また、この高層住宅で最初に発生する、死亡事故の設定も違う。
 おそらく、良かれと思って変えたこの二つが、映画版を小説よりさらにわからないものにしてしまった原因なのだと思います。元のままなら、うまく行ったと断言することはできませんし、尺に収まらなくなったから変えたのかもしれませんが。

 ネタバレを避けて言うなら、「わかりにくい原作に、わかりやすい主人公の動機づけを挿入したのだが、元々わかりにくいことが持ち味のお話の、その部分だけが妙にスッキリしてしまって全体と整合せず、かつ、せっかくの居心地悪さという味わいさえ消してしまった」ということでしょう。(説明わかりにくいね!(笑))

 高層住宅の最上階に陣取っているのは、建築家とその妻。建築家は、このビルを含む五つのビル群(映画では人の五指になぞられている)からなる一大コミュニティを設計した張本人。主人公は建築家とスカッシュ仲間になることもあり、何度か最上階に招かれます。
 そのたびに、建築家の用心棒がわりの男から、手荷物を取り上げられる。水泳プール用のバスタオルだったり、アタッシュケースだったり。そのときの用心棒の台詞。

 "You won't be needing that."
 「そいつはいらねえだろう」

 終始、無感動のまま観ることになってしまうこの映画で、数少ない「くすり」とさせるシーンなんですが、それさえもほったらかしになる。もうちょいうまく使えよなあ、と思ってしまいました。
 それよりもなによりも、前述のように、映画そのものに「そいつはいらねえだろう」という部分があったことが惜しまれます。

 出演はブリッツの有名な俳優ばかり(一部アメリカン)。台詞自体は当然ブリティッシュなんで、言い回しなどで、非常にためになることは多かったのですけどね。

 ちなみに、引用した未来進行形の説明は難しいのだそうですが、「誰の意志もはいらない当然の成り行き、なるようになる未来」。それを用心棒が言うのが結構おかしい。

2016年8月30日 (火)

ニッポン対トーホー。

 前の記事に関連して、制作委員会方式についての甲論乙駁があったのでリンク。 

 広告代理店が絡めば利害関係の輪から逃れられないメディアは、この手のネタは通常ガン無視、完全スルーでしょうから、こういうふうに異論が出ること自体は歓迎すべきでしょう。 
 ところが、お読みになればわかるけど、結局どちらも似たようなことを言っている、島国特有の「気分」によるおしゃべりで、特に反論はまったく反論にはなっていない。

 それもそのはず、筆者ふたりも「業界人」だから、ろくでもないことを書けば目をつけられて、そっこー干される弱い立場でしょう。まあ、そもそもそういうところが、メタ的に「シン・ゴジラ」のテーマに繋がっているのがおもしろくて、あたしもネタにしているわけです(笑)。

 【甲論】は、オリコン・スタイルの記事なので、おそらくこれが拡散されていったオリジナル扱いされているのかな。実際にはその前からネットでは話題になっていたのでしょう。

http://www.oricon.co.jp/special/49275/

「東宝“単独製作”『シン・ゴジラ』で露呈した製作委員会方式の功罪」

 【乙駁】は、こっち。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sakaiosamu/20160829-00061607/

「『#シン・ゴジラ』をネタに製作委員会方式の良し悪しを問うのは不毛だ。」

 ただし、【甲】の「批判」に論駁するとしたら、【乙】はあまりにプアすぎる。
 「ぼくはそうは思わないなあ」と、島国特有の感性でものを言おうとする姿勢。それが格好いいと思っているのだろう。
 それを言うなら、「あたしもあんたの言うようには思わないなあ」でほんとはオシマイ(笑)。

 【甲】のほうも、「企画段階でバイアスがかけられることが多い製作委員会方式」などとサブタイトルで書いてあるが、これはミスリーディングな「釣り」。
 筆者は「(そうであると)まことしやかに言われている」と、別に断定しているわけではない。よってオリコンの記者が「あおり用」としてつけたのかもしれない。

 【甲】の論旨はふたつ。

(1)これ(極めて野心的な中身をもつ「シン・ゴジラ」という作品)を東宝単独の製作で成し遂げた意味は、今の日本映画界にとって、計り知れないほど大きい。一社で責任を負うことが重要なのである。

(2)(制作委員会方式では)最大公約数的な企画の無難さ、凡庸さのなかから、そつのない娯楽作が連発されていく。

 言い換えれば、(1)は責任(すなわちリスク・テイキング)の主体が明確である、(2)はグループ・シンキングは「悪」である、ということでありましょう。
 どの作品が「無難」で「凡庸」か、なんら実例を示していない。そういう分野で飯食ってるから示せないのが島国の悲しいところだが、「島国作品の主流がそうである」とは断っている。

 「優秀な個人(の決断)は、優秀なグループ(の決断)に優る」。その理由は、後者は「グループ・シンキング」の陥穽に囚われるから。島国では「集団思考」と訳されているらしいけど、学術的にはそんな中立的な意味ではなく、「集団でなされる決断では、個々人の思考(決断)が鈍り、結果として大きな過誤を呼ぶ」というネガティヴな意味である。
 東宝だって企業であるから、その一社の決断が「グループ・シンキング」から無縁とは言えないが、大きな弊害のひとつである「リスク軽視、度外視」という行動パターンは、参加者(企業)が増加すれば増大していく。 

 主張としては明確な【甲】に対して、【乙】は、その部分については、それに反論しているように見せかけて、実際にはツイートなどで「委員会方式が諸悪の根源説」を拡散している者たちに「ネットのゴミ、とーしろー、モブどもうるせえ」と言っているだけのようだ。【甲】と直接喧嘩するのも、【乙】にとっては「損」ですから、顔の見えない、どうせろくでもないだろうネットの奴らを叩いておけば、なんか格好いいということでしょうか。
 まあ、一応論旨らしきものを追ってみるけど。

 (1)について、「(制作委員会方式では)基本的には”幹事会社”がイニシアチブを握り、中身に対して責任を持つ」と反論している(ように見える)。今問題となっている「責任」とは、「期限までに主役俳優を選ぶ」とか「制作工程表をまもる」とか、そういう事務レヴェルの責任のことではない。どう出るかわからない結果に対して(主としてファイナンシャルな)責任をとる、「リスク・テイキング」のことを言っているので、反論にはなっていない。

 (2)について、「映画のことをわかってない素人が、お金を出したからには言わせてもらいますよと口出しするイメージがあるようだが、そんな失礼な会社は委員会にいれないだろう」は、単なる都合のいい憶測。そんな「失礼な」会社が強烈なコネや資金を持っているケースなんて、別に業界にいなくたって、ジャ★ーズはじめ、いくらでも思いつく。

 「金を出したのに口を出さない」 なら、どうしてそもそも金を出す? それこそ「投資信託」ではないか。「制作委員会」などと呼ばずに、「投資委員会」とすればいいではないか。現に、【乙】の書きぶりであれば、幹事会社以外は完全に「投資活動」として、またはせいぜい広告など周辺分野での「おこぼれ」にあずかるため参加していることになり、とても信憑が得られる主張ではない。

 【甲】の主張に対する【乙】の反論がどんどん破綻していくので、読んでいるこっちが腹立ってきてやめたくなるが、乗りかかった船なので続けて行こう。

「もちろん製作委員会方式で揉めた例だってある。幹事会社のパワーが弱かったり、企画のコンセプトがゆるいと話がややこしくなることも出てくるだろう。また宣伝など映画の周辺領域では何かと揉めがちだったりはする。」

 なんだよ、やっぱり、もめてんじゃないか! みな「口出し」してんじゃねえか!
 しかも「大して重要ではない、ただのおこぼれだった」はずの「宣伝などの周辺領域」でもめてんだろ? だから、そこが重要なんじゃないの?(つまり、おいしい汁が吸える)

「だが製作委員会方式ではなくどこかの単独出資だった場合も、会社の中で上司だの役員だの他のセクションだのが口出ししてきて良くない結果になる可能性だってあるのだ。」

 「失礼」なのは「あなた」です。制作委員会では「素人が口出すことはない」のだが、単独出資だと「素人の上司や役員や他部門が口出しする」んですね?
 上司や役員や他部門は、みな生活かかってます。社運とともに浮沈します。責任逃れしようがないし、むしろ「謂れのない責任」までかぶってしまうこともある。少なくともそれで飯食ってる以上、「素人」ではないし、よしんば、かつてのロックフェラーや角川春樹がそうであったように、「口出しする素人」が相手であったとしても、プロジェクト(企画)に対して一定の権限を有する相手ではないのですか。「プロ」たる映画製作者たちは、「金持ちの素人」に対して思いっきり陰口を叩いていたとしても、その指示を無視するようなことはしなかった。

 つまり、映画界の人間である【甲】の、「委員会方式はグループ・シンキングに陥るから、悪だ。映画会社は単独でリスクを取るべきだ」という主張に、宣伝業界の人間である【乙】は、「そうかもしれないけど、業界人としてよういわんわ自分。つうか青臭い理想ばかり言うなよ、世の中商売だろ。みんなそれでそこそこ飯食ってんだよ」としか言っていないのです。 

 さすがにそれで終わりでは、「プロ」としての矜持が保てないとでも思ったのか、そこから、自称メディアのインテリお得意の「論点ずらし」がはじまります。

 まず、「単独出資」ではなく「自社製作」だからよかったと、「おまえらトーシローには区別つかんだろ」と、自分でも区別できていないような定義を持ち出すのは、「論点ずらし」の初級編で、ご愛嬌。さらに「こういう作品は成功したじゃないか」と、すでに結果のわかっている作品を列挙しているのもなんら自説の補強にならず無意味だが、この論者の節操のなさがわかって面白い。こういう連中は、なんとなあく、回りが黙りそうな手口を多用するんだ。ロジカルに考えれば「何も言っていない」。みなさんも、ペテン師に騙されてはいけない。

 その後でようやく【乙】の論旨らしきものが登場する。

(3)東宝は、「シン・ゴジラ」にお金を一杯使えたからよかった。
(4)制作委員会方式の問題は、作り手への還元がないこと。
(5)そもそもの問題は、島国の映画産業の市場規模が小さいこと。

 (3)については、ここまでくると、語るに落ちたと、言わざるを得まい。(1)と何が違うのか、あたしには区別がつかない。「たまたま重要なポストにいた東宝のえらい人が、自分の裁量を駆使して予算を増額できたからよかった」というが、それこそ「一社で責任を負うこと」じゃなかったのか?
 なぜ、その偉い人は要職を二つも兼任していたのか。そうしないと、それこそ「素人の横やり」が入ることを、東宝が最初から嫌ったからではないのか。
 そして自分でも認めているが、これこそ制作委員会方式では「不可能」なことではないのか。

 (4)については、「ぼくだって制作委員会には不満があるよ。中立的な立場だよ」ということを示すための、よくある「君たちの言いたいともわかるよお」"I feel your pain!"という「ポーズ」である。自分もその一員のつもりらしいクリエイター個々人に業績が還元されないのが不満らしいが、それが「一社単独」の場合や、この人がいう「自社製作」の場合には満足できるのかどうかも示されておらず怪しい。実は両者に差がない部分ではないのか。

 (5)あたりになると、【乙】は実は気がくるっているのではないか、とまで考えてしまう。こうなるとむしろ「敗北主義者」と呼ぶべきか。
 そんな議論したってしかたねえよ、だって島国の規模じゃどうやったって無理だもん。
 あたしはそういう主張と受け止めた。さらに「海外に打って出ねば」といってさくっと「思考停止」しているところなどは、立派なメディアマンとして、お作法をちゃんと身に着けているなあと感嘆することしかりである。

 なお、「それは別の稿で」というのは、前にも書いたリベラル・ジャーナリストが苦し紛れに逃げ回る際の常套手段。結局「二度と書かない」ことが想定されるので、「わたしたちも十分注意・注視していきたいものです」。(いや、あたしはこんなのと絡みたくねえし、時間の無駄になるだけだから、皆でちゃんと注意・注視しとけよ)

2016年8月29日 (月)

好きにしろ。

 もー、お尻はやめてっ。

 MX4D、期待どおりの期待外れでした、というか面白い映画のときは、むしろ邪魔。
 ぷっぷー、しゅうしゅう、水とか空気とか出てくるのが、映画が進むにつれて、だんだん、うるさくうっとーくなってくる。
 それよりもなによりも、お尻や背中をつんつん押すのは、やめてほしい。驚くのは最初だけで、あとはイライラが募るだけです。

 しかも、連れが面白がって買ってしまった「メガゴジラ」のポップコーン(笑)。

Godzilla2
 隣のドリンクはMサイズですから、アホみたいにでかいです。もはやバケツ。

 いくらなんでも食べきれないんで、上映中はこれをおなかの前に抱えたまま、座席ゆらゆら、がくがく、お尻つんつん、風しゅうしゅう、水ぷしゅう。
 劇中、「総理、被害甚大です!」のとき、あたしの座席回りにはポップコーンが多数散乱して、こっちが被害甚大だった。
 最初の頃は「これ被って帰るんだぞ」と言って盛り上がっていたのですが、さすがに邪魔なんで、映画館にそのまま捨ててきちゃいましたけど。

 あの設備、ゼッタイ失敗投資だよ。

 そして、深夜零時のオンライン予約開始を待って、(実際にはうっかり2分くらい経過してしまってからあわてて)、二人分予約しようとしたときには、100あまりの席のいいところはあらかた埋まってしまっており、冷や汗をかいたというあたしの努力は、普通よりさらにお高い値段とともに、忌まわしい記憶として残ることになった。

 「シン・ゴジラ」。公開から一か月経っていたようですが、Mr. AnnoとMr. Higuchiが監督であること以外、何一つ情報は仕入れていなかった。あー、ゴジラの中の人については、どこかで読んでしまったかも。
 そのせいもあってか、二時間なかなか楽しめました。多少のリサーチをしたうえで、ネタバレはほとんどなしで、気になったところについてコメントを。(ご覧になった方は、「表記に間違いがある」とか指摘したくなるかもしれませんが、それもネタバレ防止のためです。すみません)

 個人的にもっとも良かったシーンは、各省庁から対策チーム・メンバーが収集されるところですね。基本は出世街道から外れた、オタク、はみ出し者、厄介者、オタク、ゴミ、クズ、オタク(もう言ったか)呼ばわりされている面々。リーダー役の医官(厚労省)からは、「人事査定には一切反映されない。年次、出身、階級序列も一切関係ない。各自好きにやれ」みたいな指示がなされるのです。まあ、わざわざ言われなくても、どうせ好き勝手やるような顔つきのメンツばかりなんですが(笑)。

 それと似たシーンで、USやらUNやらの強烈な横やりをくらって、うんうん唸ってる総理に、官房長官が「総理、そろそろ好きにされたほうが」と耳元に囁くところ。

 そこでようやく、映画冒頭の「君たちも好きにしろ」という謎のメッセージが、この映画の最大のテーマであることがわかる。

 そして、それこそ、何を隠そう、ヱヴァQの完成と同時に「壊れてしまった」と告白したMr. Annoが、ヱヴァ次作の製作を後回しにして、この映画の総監督を引き受けることになった、その決心に繋がっているのだと思います。
 つまり、「好きにやっていい」と。「全部任せる、内容に口は一切出さない」と、東宝から最大限の好条件をもらったという意味だと思います。300人を超えるキャスティングなど、普通は「面倒くさい」から島国の映画会社はやりません。政府や防衛省へのヒヤリングなど時間を喰うし、面倒くさいからやっぱやりません。総火演のロケなど、お金ばかりかかるから、CGで全部適当にごまかしますよね。

 もちろん、「好きにする」と「でたらめをやる」は違います。

 この映画の造形作家が、シネマ・トゥデイのインタヴューで次のように言っていました。

「実際に仕事をしてみて、『シン・ゴジラ』は庵野さんじゃないと出来なかったんだろうと思いました。庵野さんは大枠の部分はもちろん細かい所にまで、とても強いこだわりを持っています。質問したことには必ず説明してくれるし、そこは適当にやっていいですから、とは一言も言わない。それは物を作る人間としては当たり前で、特に監督は我慢する仕事じゃありません。表現したいモノを、できるだけ理想の形に近づけるのが仕事なんだと思います。庵野さんはそれを貫くことができるんですね、きっと」

 「そこは適当にやっていいですから」とは一言も言わない。「好きにしていい」のは監督たちだけ。監督は、「我慢」する仕事じゃない。

 Mr. Annoの意向なのか、事前PRもほとんどなく、試写会もごくわずかだったという、この映画が大変な評判をとっていることで、最近はやりの「なんちゃら制作委員会方式」を批判するライターが増えた。
 もちろん「制作委員会方式」とは、合議制に名を借りた、大手広告代理店の「アリバイ作り」と「ファイナンス手段」に他ならない。誰も責任は取らないし、取るつもりもない。だからそういうことを書いているライターは、広告代理店から仕事がいただけない、はぐれ者、厄介者、ゴミ、クズ扱いされている者たちということになりますけど。

 そこでは脚本家にも、好き勝手やるべき監督にも、一切自由はない。映画「進撃の巨人」がまさにそうで、ご承知のとおりの惨たらしい末路を辿った。Mr. Higuchiが、いくら特撮がんばったって、あんな中学生が書いたようなシナリオや、わけわかんないタレントを押し込まれたらどうしようもなかった。それさえ脚本家たちの責任ですらなかった。
(Mr. Higuchiにとって今回は、なすりつけられた汚名を返上して、さらにお釣りがくる結果になったのでしょう)

 Mr. Annoは、リブートのヱヴァ映画版の制作には私費を投じたとされており、「人様の金使ってなんぼだろう」と押井さんから批判されていた。でもきっと、彼は「好き勝手やれなければ」やらなかったんだと思う。ヱヴァも、今回も。

 「この国は、どうしてこんなに(USなどから)好かれてるのかわからない」という趣旨の台詞を、US特使が口にする。好かれてるわけないとは思うが、あれも、Mr. Annoが自分自身のことをつぶやいてるんでしょう。現場から逃げるわ、病気になるわ、どうしてそんな自分の回りに、皆集まってくるんだろうと。広告代理店以外は、誰も「金」のためなんかじゃなく集まってくる。

 この島国は、トップなんてどうでもよくて、色々な人々が支えてる(いわゆるボトムアップ)。スクラップ・アンド・ビルドで何度も蘇ってきたんだ。
 いちいち、もっともです。正しすぎて反論しようもないですが、ひとつだけ、そのテーマに疑問を投げかけるとすれば、維新の志士たちも、戦後復興の三等重役たちも、やっぱ三流・三等には違いがなかったということ。たまたま、良い方の目が出た。
 ところが、先の戦争をはじめたのも、トップなどどうでもよい、自分は人々から支えられていると信じていた者たちの仕業だった。当時は自他ともに認める「一流・優等」の扱いをされていたが、実際は三流・三等のポンコツであった。こちらは最悪の目が出た。
 いつか本当の三流・三等ばかりになってしまうんではないか、ちょっとだけ心配になったのでした。せめてあたしが死ぬまでの間は、ならないで欲しい。

 しかし、この映画の監督二人の最近の顔。なんか海の向こう側もこっち側も、この手の映画の制作者は、みんなドワ顔になってくるのね。笑ってしまいました。

2016年8月27日 (土)

遅い夏休み

 夏も終わりですねー。

 昼過ぎ、外出するために自宅の玄関の扉を開けると、ポーチのところに、何か黒いものが落ちていた。セミ。んー、つま先でちょっと蹴ってみると、ふらふらと飛び立ってどこかに行ってしまいました。
 力が尽きる直前だったんですかね。

 ちょうど小学校も近くにあり、周囲には緑も多く、シャワシャワ、ミンミンと多数のセミの声はまだ聞こえているのですが。

 って、そんなはかないセミの生涯も閉じようとしている今頃になって、ようやく夏休みがあっ。これもうちょい遅かったら、「夏休み」言わんでしょ。
 ちゅうか八月中、あんまし島国におられんかったんですわ。おっさんなのに異国でこき使われとった。
 「シン・ゴジラ」もようやく観れそうだあ。MX4Dとかいうやつ? どんなギミックかよう知らんし、アメリカンの思いつきでしょうから、いつものように思い切り期待外れなんでしょうけど、 話のタネに。映画の内容よか、連れの驚くさまが今から愉しみだったり(笑)。

 「ハイ・ライズ」も超不人気なわりには、まだ上映終わってないようなんで、意を決して渋谷結界内に突入することにしよう。平日の朝一番なら、きっと結界もまだ弱く、あたしの力でも何とかなるだろう(なんの根拠で?)。

 あ、それから24時間ドラマ見なくちゃ!(笑)
 最近のテレビ職人の、高度な映像処理技術をじっくりと鑑賞せねばなるまい。北朝の記録映像並みに、当時重要だったはずの人物が、最初から「いなかった」ことにされるんでしょ?

 すごいっすね、母親の女優にも、一世一代の「大芝居」を打つ、リアリティ番組並みの「おいしい」出番が回ってまいりましたね。あれはもう、いくら真似しようと思っても普通の俳優にはチャンスが回ってこないですから、役者冥利に尽きるのではないでしょうか?
 「野郎は性欲の塊」的な、名台詞までアドリブでこなしてました。

 それにしても人生初ですよ、あの偽善番組の特別ドラマなんて観るの。
 番組自体を観るのも最初の数年でやめた。タモリと赤塚先生が、深夜にめちゃくちゃやったのは観ていた記憶がある。んーと、ええっ、1982年?! そりゃあ、老けるわけだわ自分。

 そんな愉しみの他は、買うだけ買ってまるで読んでいない、小説、評論、学芸書などの類を片っ端から読み漁る。読書三昧。とにかくひたすら読む。

 映画のため外出する以外は完璧に引きこもれるよう、冬眠前のクマみたいに食糧などを備蓄。ふふふ。

 ゲーム? そういえば"Fallout4"もエンディングをまだ見ていない(笑)。3DSの「ゼノブレイド」も途中までで放置状態となってしまっている。
 九月になれば、P5などが怒涛のように押し寄せてくる。それまでにこなさないと、多分やらなくなってしまうでしょう。ちっとはやっとくかあ。

 ん? 他にも何か忘れてる?
 TW3?
 ほんまや。嫉妬に狂ったあげく、最初から「なかったこと」にしてるわ自分。
 まあ、ちょいと覗いてみましょうかねえ。(また、言うだけかい)

***

 やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声 

  ---- 芭蕉

2016年8月25日 (木)

時代の流れか、炎上防止か。

 BioWareフォーラムが閉鎖されるようです。

 https://forum.bioware.com/topic/574907-concerning-our-forums/

 もう明後日(島国時間)、26日(現地時間)のことらしい。
 SWTORのみ除く。DAもMEも、それ以外のレガシータイトルも含め閉鎖対象。

 「掲示板方式」ではないツールを用いたファンサイトが多数あるし、BioWare自体もfacebook他のツールでの情報発信がメインになっているため、フォーラムがなくてもファンとの交流は進めていける、というのが説明ですが、どうなんでしょうね。

 BioWare作品関連の炎上騒ぎは、フォーラムに限らず何度も発生している。他のパブリッシャー、デヴェロッパーのフォーラムを真面目に読んだことは少ないが、BioWareほど大騒ぎになることは少なかったのではないでしょうか。

 個人的にも、すでにDAI発売前からフォーラムを閲覧することは皆無となっておりました。読めばただ不愉快になるだけ、ということはわかっておりましたし、ゲイダーさんもTumblrメインになって滅多に書きこまなくなっていた(そのTumblrも誹謗中傷の嵐にまみれて閉鎖となりました)。

 閉鎖の理由は、インクルーシヴィティ問題のせいだけではないだろうが、間違いなくひとつの要因でしょう。カナディアン・リベラリズムからすれば、そこはゼッタイ防衛線であるのだが、如何せん南の隣国のほうが人口も多く、騒々しさも圧倒的に激しく、かつ、おそろしく「保守」的なのである。ミソジニー(女嫌い)が伝統の国でもある。ドナルドが間違って当選しそうな国でもあるし、ヒラリーだって、邪悪さにかけては負けていない。

 他にはやはり創業者たちの「ファンの意見を聞く」という、結果的に「偽善」となってしまった「ポリシー」があると思う。ME3では前代未聞の「エンディングやり直し」という事態まで引き起こしてしまった。
 Valveなどのように、「ファンを正しく疑う、適度に見下す(信用しない)」態度が、本来あるべき姿だったのだろうが、BioWare創業者のドクターたちは、あまりに無邪気で純真すぎた。

 そしてME3の騒ぎの本当の原因は、発売直前の情報リークに伴うリメイクにあった。
 開発中の情報リークも、他に比べるとなんだか多かった気がする。そこら辺も田舎企業の「甘さ」故なんですかね。

 フォーラム閉鎖のタイミング的には、ME:Aのリリースまで残り一年を切った(んですよね?)あたりですから、さらなる炎上の予防措置的な意味合いもあるのでしょうか。

 閉鎖に関しては、なんの痛痒も、感動も感じません。とにかくPRのプアな会社だったなあ、という記憶だけが残ることになる。今後頼ることになるという、facebook他のオフィシャルな情報発信についてさえ、「まるで大したことはない」というのが率直な感想です。

 ちなみにあたしがTwitterで追いかけているBioWare関係者は、OBであるケーシーたった一人となった。他はあまりにくだらないので全部切った。

 元々は完全秘密主義の会社だったんだから、もうファンへの迎合などばっさりやめてしまって、ValveやBlizzard並みにふてぶてしい(だが現実的な)態度で臨んだ方がいいと思いますけどね。それかもう、Bethesdaのように「できたものを淡々と見せていくだけ」とか。

 DAIのときも、開発中にMDが、「見せることができるようになったら順次お見せしよう」などとできない約束をして、結果的に反故にした。できないなら、なんのことはない、最初から言わなければいいだけの話なのだ。

2016年8月22日 (月)

ヒゲはなし?

 オフィスで例のスーマリの件を知り、ニュース画像は観たのだが、もちろん動画など見つからないのでイライラしたまま帰宅。
 
 なお本日帝都のJR環状線は、台風襲来の影響のため、あたしの退勤時間には運行していなかった。比較的早期に復旧するとの運行者側の情報は(いつものことだが)あてにはなりそうもなかったので、さっさと迂回する路線を利用して事なきを得た。
 抵抗を受けたら迂回せよ。立ち止まるな、移動し続けよ。これぞブリッツクリーク、電撃戦のアー・ベー・ツェー(ABC)(笑)。
 
 某国営放送で閉会式をやっていたので、横目で観ていたのだが、負けた戦いのお涙頂戴シリーズばかりで、マリオは登場せず。
(その間、しつこく繰り返される「流れが引き戻せなかった(こなかった)」というのが、某国営放送にとっての「力が及ばなかった」の言い換え表現であることに気がついた)

 さては、番組内での商標使用が御法度だとか、この期に及んで気が狂ったようなことを言い出したのか。そう勝手に思いこんで憤慨していたのだが、よくよく考えればネットで映像ファイルが観れるじゃん。
 探すとフルヴァージョンがあっさり見つかりました。

 んー・・・。まあね。いいんじゃないんですか。あたしはあれで特に問題ないす。 

 (絵的にはキャプツバがちょっと浮いている気がしたが、とにかく至るところでものすごい人気なんでしょう? あと、キティちゃんの隣にマイメロがいたらもあべたー)
 
 ただし、確かにマリオのヒゲは欲しかった。
 職場でニュース画像を見ていたときの周囲の声では、一部弱小政治勢力が、まるで鬼の首でもとったように「ナチスの総統閣下」などと騒ぎ出すだろうから、(当然企画はあったが)官邸が自粛したのであろうとのこと。

 かもしれない。それが正しい読みなのかもしれない。だが、あっちの党首(元? まだ「現」か?)のほうが、陰気なつら付きからして、ずっと似合うと思いました。マリオの髭じゃなくてちょびヒゲがね。 
 なぜか緑色ではない和装のおばはんがピーチ姫というのは、冗談にもほどがあるのでやめていただいて結構だった。
 
 あの君が代にも、きっと誰かがケチつけまくってんだろうが、あたしはなかなか良いと思った。東京出身者にやらせるというのも乙ではないですか。
 つうか、2020年にくたばっていそうな奴らの声は、一切聴く必要がない。 
.
 あと、玉木のくそ禿げ、まだ生きてたんか。でもしかスポーツライター、偉そうにつべこべほざいてねえで、いいから早く死ね。2020年までに死ね。
 お前らのような連中がくたばれば、島国はその分確実に良くなっていくのだ。
 
 それと、もう言ってもせんないのかもしれないけど、あの市松模様、ほんとに変えないんですかね? インパクト薄いんですけど。

2016年8月21日 (日)

主語などない。(実践編)

 書きたいことは前回あらかた書いたし、実践編は面倒なんで、この際もう知らんぷりしてもいいのですが、「それについては後ほど(説明する)」は、リベラル気取りのジャーナリストの常套手段。そう言いながら決して説明しないのだ。ゼッタイに真似したくない。

 なお、「ガルパン」OPの島国語歌詞・英語訳は本記事の最後に再掲しておきます。
 また、英語訳歌詞は文の途中で切れてますけど、下では文は文として完結するように、大文字小文字、カンマ・ピリオドなど多少手直ししています。

「じれったい夢だって 最初からわかってた」
"I knew it was going to be an annoying dream from the start."


 これはいいですよね。島国語にはもちろん主語などありませんが、英語では"I"を補わないとどうしようもない。あとはストレイトフォワード。(おっと見落としていた。主語が「夢」だと思ってやっちゃうと、もうダメなんで、代わりに主語"it"で格好良くまとめてますね。状況の"it"。)

「無関心な風に 何度傷ついても」
"No matter how many times, I'm wounded by the uncaring wind(,)"

 島国語受身ではないのに、英語は受動態きましたね。自分(話し手、歌い手)が主語なので、情緒がないといけない。「傷ついた」が「傷つけられた」になっています。内容的に「迷惑の受身」の要素がはいってるからですね。"by the uncaring wind"で本当の動作主体を示している。

「太陽に手をのばす 指先のResonance」
"I'll reach my hand out towards the sun, feeling the resonance between it and my fingertips."

 まあ・・・、元の島国語どうなんだよ、と言う気もしますが、resonanceは学習英語だとここでは「共鳴・共振」ですか。たしか"Resonant Blue"はモー娘。の歌にもあったし、"Resonance"はれぼれぼの歌にもあるようだから、いわゆる最近の「それらしい」キーワード群のひとつですか。ま、「共振」じゃ、「狂信」か「強震」か、意味わかんないしね。

 「太陽に手を伸ば(そうと)している」のは話し手(歌い手)ですから、主語"I"(及び"my")を補う。ちなみに太陽にのばす手は「片手」でしょうね。島国語ではこの場合は両手を「伸ばす」とは言わない。よって"my hand"。"reach out towards"、前置詞くっついてるのは何事かと思いますけど、"reach out"は句動詞。"towards"が前置詞。

 次が難題。「共振」するのが何と何かっちゅうことですが、文意はさすがに「指先と指先」じゃないすよね。「太陽(の光?波動?)と(自分の)指先」でしょうから、英語も超苦労して、"the resonance between it (=the sun) and my fingertips."とやってますね。島国語話者はそこまで真剣には考えないんじゃないでしょうか。そもそも作詞家がそこまで考えてない気がする。よって島国語に対して非常に長い英文となった。翻訳お疲れさまです(笑)。
  

「瞬きのあいだも 感じたくて」
"I want to feel it even between a blink."

 ストレイトフォワード。betweenは上のように「二つの何かの間(by two)」を示すだけではなく、「瞬きの間」でもいけるんすね。"a blink"と単数がくっつくのは珍しい。勉強になった。

「根拠なんていつも 後付けだよ」
"You can always just make up a reason later."
 

 ここ、楽曲的にもサビ突入でテンポの変わる、個人的に好きなパートですが、話せば長くなるんですが、リベラルのジャーナリストじゃないんで、長くなっても話しますが、この"you"は、普通に主語みたいな顔していますが難物です。

 「君が」(聴き手が)じゃないんですねえ。これはあたしが最近読んでいた哲学書にも出て来た、また渡部昇一先生の英文法の本(「英文法を撫でる」(PHP文庫)にも登場した、シェークスピアの「ハムレット」に登場する「ホレイショーの哲学」問題の"your"に関連しそうです。

 著名な文法書によれば、"you"の不定用法では、一般に「人々」を指し、「誰であっても人は」とするようにとのことです。"You can't make an omelet without breaking eggs."などのように、諺に多くあります。が、後ほど説明する(するから!)"your"の例に倣って、次のように訳し戻すのがいいと思う。すなわち、

 「世間で言ってる根拠なんつうものは、全部後からでっちあげてんだよ」

が正解でしょう。

 いや、信じてくれ! うそじゃない! トラスト・ミー!
 「世間で」と「なんつうもの」がミソ。

 では噂の、「ハムレット」(第一幕、第五場)の一節(渡部先生の前掲書から引用)。

 "There are more things in heaven and earth, Horatio,
    Than are dreamt of in your philosophy."

 普通は「ホレイシオよ、天と地には『君の哲学』の中で夢想される以上のことがあるんだ」とやっちゃうでしょう。「ホレイシオの哲学」と思っちゃいますかね。
 「間違い」なんですって。
 前掲書から坪内逍遥訳。
「この天地の間にはな、所謂(いわゆる)哲学の思ひも及ばぬ大事があるわい」
 さらに、あたしの手元にある、福田恆存訳(新潮文庫)。
「ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」

 渡部先生曰く、坪内訳は「当時としては驚くべき正確な訳」であるそうだし、福田訳は「人智」と意訳されていますが、あくまで「世の中全般」のことを指してますよね。ただし、世のシェークスピア研究の成果を踏まえて、渡部先生は次のように訳すべきだとしています。

「ホレイシオ君よ、天地の間には、哲学『なんちゅうもの』では夢想もできないことがあるんだぜ」

 つまり、「なんつうの、哲学ってやつ? あれはだめよ」という、(1)聴き手に対する親しみと、(2)(一般には評価・称賛されているはずの)話題の対象に対する侮蔑のニュアンス、がないといけない。この"your"(難しい用語で心情的属格または感興属格)は、一旦気が付けば、普段目にする英語にも、いろんなところに登場しますね。

 渡部先生の前掲書にもいくつか例が載っていますが、著名な文法書だとこんな例が載っています。

"If this is your famous French cooking, I don't think much of it!"
「これが、かの有名なフランス料理ちゅうもんなら、どーってこたねえな!」
 
 余談(多いな!)。

 かの島国のプライム・ミニスター小泉が、2005年の英国グレンイーグルズ・サミットに出席した際の話。事前にフレンチのシラクが、ロシアンのプーチン、ジャーマンのシュレイダーに、「料理のまずい国の奴らは信用できねえ」と陰口を叩いていたことが問題になっていたそうな。明らかにブリティッシュ料理を侮辱するエスニック・ジョークであった。

 さて、あちらの島国のPMブレアによれば、こちらの島国のPM小泉は、晩餐会で一口料理を食べた途端、「ヘイ、ジャック(シラク)! このブリティッシュ料理、素晴らしいな!」と褒めちぎったんだそうな。シラクが苦虫をかみつぶしたような顔になったのは言うまでもない(笑)。

 ついにシラクが、「あたしは実はあんなことは言っていない」と釈明したのだが、今度は事情をご存じなかったエリザベス女王陛下が「何のお話ですって?」とお尋ねになり、惨めにもシラクは、一から顛末を話す羽目になった。その間も、PM小泉が執拗に「いや、料理がうまい、素晴らしい」と繰り返したので、PMブレアは、そのうちシラクが護衛の副官の銃を奪って、PM小泉を撃ってしまうのではないかと思ったそうだ(笑)。

 余談おしまい(長いな!)。

 そして渡部先生がこのネタのきっかけとしているし、別な哲学史の本にも例示されていますが、かつて明治時代、当時の島国の「哲学」に対するイメージをどん底まで貶めた、ある一高生(今で言う東大生)の自殺事件がありました。「哲学」に煩悶したが故に、華厳の滝に投身したという、あまりに斬新なその理由のため島国中で話題となり、世間の親たちは、哲学を目指したいという子弟のことを、「自殺するからダメ」と口を揃えてはねつけたといいます。

 ところが本人はその遺書で、まさに上の台詞の部分を、「ホレーショの哲學つひに何等のオーソリテーを價(あたい)するものぞ」と「誤訳」していた。もし彼が「正しく」翻訳・解釈していれば、たかが哲学、鼻で笑って生き続けたかもしれないのだそうです。

 予告通り長くなりましたが、軌道を元に戻します。
 だから、この英語訳は島国語歌詞の意味を「完璧に」反映しているんだと思います。英語って、こういう警句的な表現が大得意なんでしょうね。

「大人ぶった予防線 飛び越えて今 Bright way」
Now that you're over trying to act like an adult to protect yourself, you're going bright way.

 ここもご苦労なこってすねえ。島国語もきついけど。
 訳自体はストレイトフォワードですけど、長くなっちゃいますよね。島国語に訳し戻すと、なんかこなれていない文章になっちゃいますけど。意訳入ってます。

「保身ばかりの大人みたいに振る舞おうとするのはもうやめたんでしょ(踏み越えたんでしょ)、これからはブライト・ウェイ(和製英語なんで意味はよく知りません)を進むんだよ」

 この"you"はふつうに話し手(歌い手)が語りかけている聴き手ですね。「根拠なんて後からついてくるよ、縮こまってることやめにしたんだから、いっそ飛び出そうよ!」でしょうか。"now that"は、「今や、ナントカだから」とか「ナントカしたからには」だそうな。緩い繋ぎですね。

「踏み出した空に 走っていく光 一番先へ 目覚めるスピードで」
"The rays of light race forth, having made their way into the sky, racing off to be first  at a speed that wakes you up."

 さあ、主語がすり替わりました(笑)。つか島国語主語ないけど、「踏み出した」のは歌い手ですよねえ。ここもなんつうか、フィーリングてんこ盛りですよねえ。
 英語では"the rays of light"「いくつもの光の筋」が主語になって、ちゃんと"race (forth)"と動詞もくっついていて、なんとか島国語のニュアンスを伝えようとしているのですが、なにしろ島国語自体が何言ってるか良く分かんない(笑)。直訳で戻してみると・・・。

 「いくつもの光の筋が突き進む、目指す空に辿りつき、先を争って飛び去っていく、君が目覚めるくらいのスピードで」

 ご苦労様です!

「破れそうな鼓動 連れていくんだ  もっと強い 可能性になれ」
"My heart can't keep beating this fast as it pulls me along, making all of this more likely to happen."

 ここも主語すり替わり。いや島国語主語ないとしても、「連れて行く」のは「自分」(話し手)ですよね。「あたしが鼓動を(打っている心臓ちゃんを)連れて行く」
 ところが、英語では「あたしの心臓」が主語。そして「心臓があたしを連れて行く」。

 さらに言えば、「あたしの心臓ちゃんが、あたしを引っ張っていくんだけど、心臓ちゃんの鼓動はこんなに早く打ち続けていられそうにない。ところで、なんで心臓ちゃんがあたしを連れていくかっていうと、結果?(勝利? 成長?)をさらに間違いなく掴むためなんだけどね」
 
 それで間違いないと思いますが、格好良くやれば、「進むにつれて、心臓がもう張り裂けそうなくらい激しく打ってるけど、勝利を確実にするために頑張らなくちゃ!」かな。

 以上ですが。 

 なぞってみると、かなり良心的な(まじめな)訳ですよね。島国語に忠実なんて決して言いませんけど(つか、島国語自由すぎ)、相当まめに追っかけている。頭が下がります。

 主語などない島国語を、主語(と動詞)がないとダメな英語にする苦労、良く分かると思います。手を変え、品を変え、最後はついに心臓ちゃんが主語になっちゃいましたね(笑)。 
 人だろうが、ものだろうが、形而上の概念だろうが、"it"だろうが、なんだろうが主語を務めることができるのが、英語のすごいところです。

 もちろん、島国語だって、「あたしについて言えば」、「あたしの心臓について言えば」、「あたしの勝利(成長)について言えば」で、融通無碍になんでも「主題」にできるし、"it"いらないし、いい勝負ですかね。

*** 

I just feel my wind
I just feel my shine
Rise & ride into the sky

I knew it was going to be
An annoying dream from the start

No matter how many times
I'm wounded by the uncaring wind

I'll reach my hand out towards the sun
Feeling the resonance between it and my fingertips
I want to feel it, even between a blink

You can always just make up a reason later
Now that you're over trying to act like an adult to protect yourself
You're going bright way

The rays of light race forth
Having made their way into the sky
Racing off to be first, at a speed that wakes you up

My heart can't keep beating this fast as it pulls me along
Making all of this more likely to happen
Rise to my feet!!

***

I just feel my wind
I just feel my shine
空に rise & ride

じれったい夢だって 最初からわかってた
無関心な風に 何度傷ついても
太陽に手をのばす 指先のResonance
瞬きのあいだも 感じたくて

根拠なんていつも 後付けだよ
大人ぶった予防線 飛び越えて今 Bright way

踏み出した空に 走っていく光
一番先へ 目覚めるスピードで
破れそうな鼓動 連れていくんだ
もっと強い 可能性になれ
Rise to my feet!!

主語などない。

 しつこいですが、「ガルパン」OP主題歌の歌詞について。

 最近の出張中、空き時間に読み続けていた「英語の発想」、「英文翻訳術」(いずれも、ちくま学芸文庫)の内容が、あまりに我が意を得ており、読みながらいちいち頷いているうちに頸がガクガクになってきたほどです。

 特に「英文語順を乱さない」の教えは、あたくしもDA小説を訳したとき、呻吟悶絶、苦心惨憺して発見した「省エネ翻訳」だったのですが、翻訳の専門家である著者(安西徹雄、上智大名誉教授)からお墨付きをいただいたようなもので、鼻が高い。つか、自分で発見したのではなく、まるでパクったように思われる可能性も出てきてしまったわけですが・・・。

 大切な教えはいくつもあるのですが、ここでは、「主語」のお話。

 よく、「島国語は主語が曖昧」と言われます。上司や教師から「主語をはっきりさせること」と指摘された経験がある人も多いでしょう。
 ところが、実はそれどころか、「そもそも島国語に主語はない」というのがどうやらほぼほぼ定説になっているようです。
 では助詞の「は」や「が」が受けているのは一体何? 「主題」であると考えるのが、一番説明がうまくいく。あるいは「場」(ば)。状況とか情況のことですね。

 よく島国語が融通無碍というときに示される例として、「私はうなぎ」があります。
 ご存知の方も多いでしょうが、文脈や場を考えれば、食事処で注文をしようとしている場面では、ごく普通に使われている表現でしょう。同じような表現で、「私はビール」や「私はコーヒー」では、ネタバレしやすいのですが(笑)。

 もし「私はうなぎ」の「私」が主語であれば、「そうは見えませんね!」というのが正しい返答になるのですが、そうではない。島国語を学ぼうとするガイジンに「訳して」あげるなら、「私(について)は、うなぎ(を注文しようと思う)」かなんかですかね。「私と言えば、うなぎを食べようと思う」とか。

 さらに、島国語には主語がないどころか、英語でいう目的語も補語も、全部区別はないという説まであるそうです。

 「私は/六時に/友人を/駅に/迎えた」
 
 最初の四つの成分は、すべて「述語」である「迎えた」から引っ張り出された「装飾語」であって、「私は」にさえ区別はなく、どれも平等である。むしろ「述語」のほうに「主題」があって、英語と比べると変な感じですが、「主語(主題)は最初から述語に含まれている」。

 なぜ、英語では大抵動詞がドカンと先に来るのに、島国語では一番あとにくるか、というのもこうした分析から説明可能だそうです。英語では「動作主体」(主語)、「働きかけ」(動詞)そして「もの」(目的語など)が重要視される構造をしているのに対し、島国語では一番最後にくる述語が最も重要で、話者と聞き手(たち)は、そこに向かって一緒に、しだいに進んでいく構造をしている。話者と聞き手(たち)つうのが、それらが共有しているのが、すなわち「場」(ば)ということになりますね。
 
 そして、この「主語などない」島国語を、「主語がないなどあり得ない」英語に翻訳(またはその逆を)しようとすると、大変な面倒を引き起こす。もちろん英語であっても、特にくだけた会話では省略されることもよくありますが、陰にはしっかりと鎮座ましましておわします。

 このように、本筋の文には意識的に「は」も「が」も用いず(こっそり「も」は使ってます)、主語らしきもの抜きに書いても、別段変な島国語にはなっていないと思いますけど。鎮座しているのは、何か(誰か)おわかりだと思います。あ、そうですね、島国語にはこのような複雑な敬語システムがあるから、主語不要でも問題ない、ということも言えるようです。

 余談ですが、島国語の敬語は、「空間」の隔たりによって示すと言われます。「申し上げる」、「差し上げる」、「召し上がる」など上下の場合が多いですが、コソアドは、この「空間」(の隔たり)によって「親疎」をきれいに表現している。
 近い方から順に、これ(こなた)、それ(そなた)、かれ(かなた)、あれ(あなた)、いずれ(いずかた)、どれ(どなた)。親しいものは近く、疎なものは遠い。同心円状になっていて、わけもわからない正体不明なものは「どなた(どれ、どこ、どっち)」。

 一方で、英語の敬語表現には「時間」がありますね。"would"、"could"、"might"など助動詞の過去形らしきものが登場したら要注意です。これらは、単純に「時間的な過去」(いわゆる過去形)を示すだけではなく、「相手との精神的な距離」(丁重な表現)または「現実との距離」(すなわち仮定法)によって結果的に敬語(婉曲・待遇表現)の役割を果たすことがあります。

 「よしなさい」、「やめておこう」は、島国語では大抵いけますけど、"Don't do that."はかなりきつい表現。「あたしだったら、やめておきます」、"I would not do that."で遠まわしになります。

 それから受動態。「英語では受動態を使うな」と耳にタコができるくらい言われた人もいるでしょう。なぜなら島国人は、ほおっておくと島国語を全部受動態の英語に訳してしまうから。英語の受動態では、ほとんどの場合「主語」(by なんとか)が隠れているので、島国語と馴染みやすいんでしょうね。
 受動態も(まさにその動作主体が曖昧になるという点を利用して)婉曲表現に用いられ、ひいては敬語の役割を果たすことができます。

 ただし、「受動態を使うな」という忠告は(島国人に限らずネイティヴについても)正しくて、本当に使うのはごく限られた場面にすべきなようです。島国語でいう「迷惑の受身」、ひどい目に「あわされた」、ぶいぶい「いわされた」、面倒を「おしつけられた」などの場合。その裏返しで「受益の受身」、恩恵を「受けた」場合。そして「オリンピックが開催された」など、情緒を伴わない「非情の受身」の場合。

 おっと、長くなってきた。「ガルパン」主題歌を用いた実践編は次回で。

 最後にご忠告。この記事を読んで、「なんだそうか」と納得いただくのはいいのですが、この先上司や教師に(つか、ここアダルト向けなんで中高生は読むな)「主語をはっきりさせなさい」と言われても、「島国語に主語なんてそもそもない」などと不用意に言わない方がいいですね(笑)。
 相手がニヤリとしてくれる確率は低く、そういう人以外の場合は、取り返しのつかないことになりかねませんからね。 あたしだったら、それはしない。ぶいぶいいわされても、当局は一切関知いたしません。

2016年8月20日 (土)

ウラシマ

 さて、長めの出張から帰国しますと、色々とウラシマ効果が確認できますね。

 んー、まさかの突如、番組降板ですか。正直驚きましたね。

 え? ジャ●ーズじゃねえよ、興味ねえよそんなの。上杉隆だよ! ほらMXTVの(誰も知らねえよ)。
 そ、別にあたしも一度も観たことはありませんけど、都知事選に出馬したらそっこー降板させられたらしいですね。ジャーナリストも大変だ。ま、どうでもいいことか。

 んー、そしてさらに、まさかの解散ですか?! これは大ニュースだったんでしょうね。

 え? いやシールなんとかじゃねえよ、早く死ねばいいんだよあいつら。ジャ●ーズだよ!

 わざわざ紅白の日まで解散延期したというのに、それもボイコットなんですかねえ。いたいけなあたくしには想像を絶する、なかなか凄まじい、惨たらしい世界が展開していたのでしょうね、内輪では。

 んー、まさかの発売延期かあ。まあ驚くもなにも、最初からさしたる興味ございませんけど。

 え? レガリアのBD/DVDじゃねえよ、FFホストクラブだよ!

 やっぱVRがどうのでもめてるんですかねー。プロデューサーの釈明動画があるそうですが、あたしといえば帰国したばかりなんで、もういい加減寝ないと、って「ガルパン」観てから(笑)。

 ところで、ME:Aの延期のニュースは・・・、まだないな。

パンツァー、ヴォー!

 出張から帰国後、直ちに、Amazon.comから到着していた「ガルパン」(TVシリーズ)英語版BDを鑑賞して涙ぐんでおります。

 んー、もうAmazon Primeからなくなろうがへちまだろうが、これであたくしはぜんぜんオッケーなんですけど、残念ながら英語VOの字幕はないんだよね。島国語オリジナルには英語字幕が付いているので(まずあり得ないけど)VOの台詞と一緒かどうか、確認してみます・・・。
 ・・・確認の結果、やはりかなりのずれがありました。まあ、島国語台詞はほぼ覚えているので問題はないのですが。 

 何度も観直したTVシリーズのOPテーマですが、残念なことにあたくし、島国アニメの主題歌の歌詞で感動することはめったにありません。もうほんとに数えるほどしかない。

 最近特にいらつくのは、なんか「それ風の」キーワードのプールから選んだ単語を、作文AIがくっつけたみたいな歌詞がやたら多いこと。
 最初から歌詞などスルーしてしまいます。
 それが癖になってしまっているので、「ガルパン」の主題歌の歌詞もまるで覚えていない。
 だが、第一話主題歌(エンディング近くに流れる)についている英語字幕を眺めていたら、不覚にも涙ぐんでしまった。

"I knew it was going to be an annoying dream from the start."

"You can always just make up a reason later."

 ここらあたりが直撃弾ですかね。

 島国語歌詞はネットのいたるところにあるでしょうから、コピペ。まあ・・・、実際読み直してみても、やっぱ(意味がぱっとわかるようなものではなく)、あたくしにとってはスルーすべき内容なんですが。
 英語になると、とたんに良くなるってどうなんだろう。(ただし英語歌詞も、意味を合わせるためにかなりアクロバティックに無理しくさってますね、特に後半は力作です)

 声優の選び方については、ちょっと違うかなあという感じもあり、とくに西住ちゃんと「かいちょー」が、かなりイメージ違う。ま、それも慣れれば気にならなくなるのでしょう。

 なお、"Panzer vor!"、英語の発音では、「パンツァ・ヴォー!」
 ここだけは、ちょっと腰が抜けますね(笑)。

*** 

I just feel my wind
I just feel my shine
Rise & ride into the sky

I knew it was going to be
An annoying dream from the start

No matter how many times
I'm wounded by the uncaring wind

I'll reach my hand out towards the sun
Feeling the resonance between it and my fingertips
I want to feel it, even between a blink

You can always just make up a reason later
Now that you're over trying to act like an adult to protect yourself
You're going bright way

The rays of light race forth
Having made their way into the sky
Racing off to be first, at a speed that wakes you up

My heart can't keep beating this fast as it pulls me along
Making all of this more likely to happen
Rise to my feet!!

***

I just feel my wind
I just feel my shine
空に rise & ride

じれったい夢だって 最初からわかってた
無関心な風に 何度傷ついても
太陽に手をのばす 指先のResonance
瞬きのあいだも 感じたくて

根拠なんていつも 後付けだよ
大人ぶった予防線 飛び越えて今 Bright way

踏み出した空に 走っていく光
一番先へ 目覚めるスピードで
破れそうな鼓動 連れていくんだ
もっと強い 可能性になれ
Rise to my feet!!

2016年8月14日 (日)

お盆とやら

 原作を久しぶりに読み直してみて、昔の記憶どおりに大して面白くはなかったのですが、サイファイ・ファンを標榜している以上、ハズレぽいけど観に行かなかんだろうと思っておりました、映画「ハイライズ」。

 渋谷しかやってない(@東京)。つか全国でも四都市くらい。

 渋谷(ハチ公から半径1キロ以内)には結界が張られているので、あたくしは入れません。少なくとも一人では。仕方がなしに、巫女代わりの連れに声かけたのですが、お盆とやらがあけないと無理だとか。にんげんの世界は色々めんどくさいみたいだね。(お前誰だよ)

 お盆とやら明けに行くことにはしたのですが、しかしネット予約サイトを見てみますと、座席表はいつも白一色。立川の「ガルパン劇場版」予約のときのように、もしや連日満員?!とたじろいだのですが、こちらの白は「空席」の意味。予約するような人は連日だーれもいないってことでした・・・。(ま、メリハリつけるため話盛ってますけど、「ほぼ」いないです)
 お盆とやら明けまで上映していなかったりして(笑)。 

 Mr.Annoのあれのほうも観に行きたいのですが、とにかくすげえ混んでいるみたいなんで、やっぱお盆とやら明けでしょうかね。そっちもどっちかてと義務感漂っているけど。気晴らしして気が済んだんだろうから、エヴァ早くして。

 あ、そういえばあたくしのお盆とやらは、仕事で見事に吹き飛びました(笑)。海の向こうの、お盆とか関係ないところに行ってまいります。どうやら、誰か迂闊にもボールをポロリと落とした人がいるらしく、しりぬぐい後始末の負け戦。ふさけんな。島国の観光客どもなんぞと一緒の飛行機に乗りたくねえんだよ。なんだよ猫も杓子もおやすみには海外旅行とかどこのどいつがそんな風習始めやがったんだ。こっちはおもしろくもねえ仕事なんだよ!

 とはいえ、海外ではなかなか電源コンセントがあわず苦労する3DS用として、USB端子接続用のコードも購入して準備万端です。島国にいたって、どーせくそ暑いし、暇だしな。

 「ガルパン」と言えば(いや、話繋がってないから!)、ひどいんですよ奥さん、Amazon Primeで観れるはずだったTVシリーズが、今は「配信元の都合で観れません」とかなってるんです。
 Amazonを責めても仕方ないのかもしれないが、形式上はあれを見せパイとして釣った客に金払わせて、その後ひっこめたってことになります。他にもあるのかどうかわかりませんが、人気が出るとPrimeからひっこめる作戦は、やってくるかもしれませんね。

 でもご心配なく!(誰もしてない)
 あたくし、まるでその事態を予期していたかのように、ご本家Amazon.comのほうから、英語版BDをすでに取りよせておりましてよ! ついでにOVA集も一緒に!
 それらもお盆とやら明けには到着するようですので、Primeがどうなろうが知ったこっちゃござんせんの。ふふふ。(キャラ揺らぎまくり)

 でもそんなこともありましたので、対象電子書籍が月額980円で読み放題のKindle Unlimitedには二の足を踏んでます。少なくとも今のところ、ろくなものが対象になっていないことくらいは、「出版社」別のページで手に取るようにわかるのですが、逆にどちら様がAmazonの軍門に下るのを良しとしないかも、たちどころにわかってしまいます。

 毎週、駅で買っているニューズウィーク日本語版の分だけでも元はしっかり取れてしまいますし、この度のように、ちょっと長めの出張でうっかり買いそびれても電子版なら心配ないのですが、Kindle端末やスマホ・PCで読むのがいまいちぽいことと、なにより他のラインナップがへぼいままでは、まだ思い切りはつかないんですのよ。

 そうそう、そう言えば、さっきまで読んでいた佐藤優氏の本に書いてあったのですが、Googleの創設者たちとか、Amazonの創設者も、幼少の頃は特殊な手法の英才教育を受けていたのですってね。小さなお子ちゃまの教育に頭を悩ませている方ならご存知かもしれませんが、すでにその手の教育手法は島国にも上陸しているのでしょうか。結構なお金がかかるようですけど、ちっちゃい頃は、親や回りがつべこべ言わずに好き勝手にさせておくと、GoogleとかAmazonの創業者になれるようですよ。

 大学受験のために、あわててすごい金額をかけるより、ちっちゃいうちに多少値の張る教育を受けさせておいたほうが成功する可能性も高いし、ROI、ごめんあさあせ、思わず学がにじみ出てしまって、投資回収率はずっといいんですって。

 でも、それはまあ、あちらのお金持ちなら十分さもありなん、ですけど、気になったのはそんなことではなくて、そこでの教え。
 「将来金儲けできたら、独り占めしてはいけない。貧乏人どもにきちんと分け与えよ」ということを、叩きこまれるのだそうですよ。

 あーね。それでわかったわけです。Googleは、これまでもずっと「アナーキック」なことをやってきたのだと思ってましたけど、実際そうだったのですね。というか、「既存」の権威や制度を否定する、という意味でのアナーキックであったところは当たっていたのですが、実はこれ、ファシズムの発想だったんですね。現にその幼少英才教育の考案者という女性が、ムッソリーニの助言者でもあったといいます。

 まさかあーたがたの間に、そんな学のない方はおられないと存じますが、お断りしておきますと、ナチズムとは違います。ファシズムは、「一人は万人のために、万人は一人のために」というスローガンでおわかりのように、ムッソリーニが実現しようとした「結束主義」、全体主義のことをいいます。国民(構成員)は労働で国家(全体)に貢献せよ、「働かざる者喰うべからず」の世界ですから、弱者切り捨てのようにも思えますが、そうではない。優れた人が挙げた業績などは国家・国民に還元せよという主義です。
 実際当時のイタリーの労働環境や福祉は、一時的にとはいえ劇的に改善されたとされます。もっとも、対外的に植民地を求めなければ、発展は持続不可能だったわけですけど。

 ナチズムは狂人の思想、頭おかしい個人の妄想を実現しようとしただけですから、まるで違う。細部割愛しますけど、弱者(というか規格外の者は全部)切り捨てであったことは間違いござんせん。
 そして大事なことですが、ファシズムは、(アナキズムの一形態である)サンディカリズム(労働組合至上主義)も包含できてしまうのですね。「既存」の国家や政府を忌避するところは同根なのです。

 Amazonが、「そこまでやるか」攻撃で小売りの世界を全部制覇しようとしている意図も、あたくしはこの線で紐解けると考えております。(あちらの小売業の最後の砦かもしれないMercy'sも、もはや青息吐息のようです)。それよりも何よりも「書籍」から手をつけたってのが重要なのかもしれませんね。

 そしてGoogle図書館も間違いなくそうなのですが、ポウケモンGO(を実現した技術)にしても、その背後にあるGoogleの「思想」は、結局のところ繋がっているんですよね。
 島国で神社仏閣の宗教関係者や、左翼平和主義者(ヒロシマなんとかドーム)や、果ては白虎隊のお墓で稼いでいる「地権者」どもが、みるみる不機嫌になっていったのは、既存の「制度」に安住して、(自分たちだけ享受している)心地よい世界に手を突っ込まれ、いずれ何もかも奪われて、いいようにやられてしまうことを、特権保持者であるが故に敏感に感じとったからなんでしょう。
 ふつうにポウケモンをプレイしているカジュアルは、なかなか気が付かないでしょうけど。

2016年8月12日 (金)

【SotV】#3 馬小屋で一泊

 
 とうとうPayPalで、支払いしたのにダウンロードできないトラブルが起きました。
 とはいえ、IDWのカスタマー・サーヴィスから(熱心なのか暇なのか)こちらの苦情にそっこー対処してもらい、二度ほど「まだダメなんだけど」のやりとりを経て、数日後にようやくゲットすることができました。
 
 たかが400円(+アルファ、円安傾向)、諦めてもう一回買えばいいじゃん、という向きもあろうかと存じますが、過去DLC黎明期のBethesdaのとっぽい商売をはじめ、何度となく無駄なクレームを続けては(てきとうにごまかされて)挫折をつづけて来たこちらとしては、そこで燃えないでどうする!
 
 BioWareはだめ。あれ田舎企業。DAKなんて、そもそも自分たちでどこがトラブってるか気がついてないから。かつてのBesethdaも似たようなもんだったのですが、いまやいっぱしのマルタイナショナル・カンパニーですもんね。差は圧倒的です。

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 苦労して得たわりには、大した内容ではなかった。

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 定番ともいえる、馬小屋での一泊。

 この「馬小屋が宿代わり」の原型はなんなんでしょうね?
 いや、「ウィザードリ」とかじゃねえよ、もっとずっと遡ったオリジンの話だよ。 
 記憶している限りで、「ホビット」や「指輪物語」にはなかったような気がします。「宿」をとても大事にする物語だったような気がするし、そうでなければ三日三晩にわたって休みも取らずに荒野を疾走する。もし、馬小屋のシーンあったら御免なさい。

 今となってはなんか普通に感じてしまいますが、こういうことが、リアルにあったんでしょうか。というか、リアルに「冒険者」という連中がいたのでしょうか。とてもそうは思えないのですが。
 また、正直臭くてどうしようもない、眠れるはずもないと思うのですが、冒険者たちのほうも、実はそうとう匂っているのかな。

 本当のところは、西部時代などアメリカンの逃亡者たちが、止むにやまれず夜は牧場や農家の馬小屋に潜んでいたのをモデルとして、遡ってファンタジー世界に取り込んだ、そんなことだったりして、とも思うのですが。一種のアナクロニズム(時代錯誤)ですかね。

 物語のほうは、ようやく禿げとネズミ以外のパーティーメンバーの素性の断片が示されるようになってきました。レイヴンロフトの「ボスキャラ」とは、なかなか遭遇しない。

 耽美系かつイーヴィル・ワールドであるに違いないレイヴンロフトに、それぞれのメンツがだんだん釣り込まれて行きそうなのですが、ホビット、もといハフリンにだけは免疫があるのかな。
 (注)「ホビット」はトールキン側のIPだったので、DnDは自由に使えなかったんですね。しょうがなくて「ハーフリング」(Halfling)を生み出した。「ミスリル」が「ミスラル」になったのも同じ経緯)

 そして、まず考える前に叩き斬る。叩き斬ってからも考えることはしない、この禿げレンジャイと(あー、はいはいハムスターのブーと)、レイヴンロフトの世界観とのミスマッチを、この先どう利用していくのか、はっきり申し上げて、こちとらまったく興味はございません(笑)。

 気になるのは、ふたりのねえちゃん(エルフのウィズとクレ様)たちが、ボスキャラにどう籠絡されちゃうのかしら、くらいかなあ。(実はハフリンもねえちゃんなのだが、禿げレンジャイよりさらにミスマッチ・・・)

2016年8月11日 (木)

反撃

 アニメで、作り直しのため打ち切りって珍しい。

 ゲームにしろ、読書にしろ、ウェブにしろブログにしろ何にしろ、横で映像垂れ流しておかないと時間がもったいない。
 もちろん、そちらの映像をまともに観ているわけではないが、ところどころ引っかかる台詞などがあれば注意を向け、面白そうなら気合入れてみるということになります。滅多にないですけど。

 今年の夏アニメで正座して観るものは、"NEW GAME!"のみでほぼ決まり。あとはどうでもよいから垂れ流し具材として活用できます。喩えるなら、DJがタンテでスクラッチ(こきゅこきゅ)するレコード盤選ぶ感じで、旧作・新作関わらずアニメを見つくろっているのですが。

 たまたま垂れ流し続けて来たものの配信が途切れてしまい、代わりのSTEINSなんとかは、だんだん中身に腹立ってきたので一旦観るのをやめて、違うものを物色しておりました。
 垂れ流しだから何でも良いというわけではなく、やはりちらちら映像が目には入りますから「絵柄」。あたしの絵柄の好み、ストライクゾーンはちょー狭いので、ここは厳しい。あとはできるだけ「話数」が多いもの。いちいち選び直すのが面倒だから。それとSTEINSなんとかがそうだったのですが「中身」。やはり台詞は聴こえてくるわけで、途中で腹が立ってくるようなものはいけません。シナリオやプロット、台詞の言い回しもありますね。

 もちろんプロモの絵柄以外は、観なければわからないので、そうやって選んだ作品を勇んで見始めたのですが、リアタイの放映スタート時期からしばらく経っているわりには配信されているのが第一話のみ。
 これは変だ、ふつう第一話と最新話はあるはずで、途中見逃していれば(面白ければ)有料配信で観るというのが、これまでのパターン。
 変だなあと思い、ユーザーコメントを見ていると、「リメイクのため打ち切り」?!

 これは新しい。アニメの世界で、バッサリ打ち切りというのもかつてあるにはあったが、最近ではあまり聴かない。さらにリメイクだって、一旦完結してから、作者の先生がアニメにいちゃもんつけたりケチつけたり(あれとか)、突然いなくなったりやる気なくなったりして(あれとか)、製作がもう一回儲けるためにやり直ししたものはあるが、4作目までで打ち切りリメイクは、新しい。

 一体現場でなにが起きたのか。他人事ながら気になりますね(笑)。今無料で閲覧できる第一話を観ながら、ここまで書いていたのですが、んー、特段気になるところは(中身がとてつもなくくだらないということを除けば)ないのですが・・・。
 とてつもなくくだらない作品は、他にいくらでもありますよねえ。

「本来意図していたクオリティと相違があることを強く認識」というのは、「へたくそ!」ということなんだろうけど、第一話だけに限れば、背景をかなりさぼってるなあ、という他は、そんなに変には見えなかった。すると後続のエピソードがとんでもないことになっていたのでしょうか。

 製作はガルパン創った人たちだというので、一旦評判をとってしまったから、一時期のレベルファイブみたいに、それで天下とったと勘違いしたりしているのかしら。儲かっているから何やってもいいと思っているのかしら。
 ま、何の思い入れもないこっちにすればどうでもいいこと。
 9月から始まるリメイク版という予期せぬ愉しみが増えたので、期待しないで待ちたいと思います。垂れ流し映像用として。

***
                                 2016年7月吉日

お客様各位

『レガリア The Three Sacred Stars』放送・配信に関するお詫び

平素「レガリア The Three Sacred Stars」をご覧頂きまして誠にありがとうございます。

7月より放送して参りました当作品ですが、既に放送・配信している話数において、本来意図していたクオリティと相違があることを強く認識致しました。
この相違は、現在の制作体制の中で解消をする事が難しく、いま一度、制作体制およびスケジュールを仕切りなおし、きちんとした形で視聴者の皆様に作品をお届けしたいという、制作サイドの意向を受け、下記の対応を取らせて頂くことにいたしました。

  • 第4話をもって、放送をいったん終了とさせて頂きます。
  • 制作体制を整理したのち、現在放送中の各TV局にて、9月1日より順次放送を開始させて頂きます。尚、改めて第1話より放送させていただきます。
  • BD・DVDのリリースにおいては発売を1ヶ月延期させて頂きます。

以上、第5話以降の放送を楽しみにして頂いた皆様には多大なご迷惑をお掛けいたします事、心よりお詫び申し上げます。

また、急な決定の為、これまでプロモーションにご協力を頂きましたキャスト・アーティストの皆様、各媒体や販売店の皆様へもこの場を借りてお詫び申し上げます。

スタッフ一同、気を引き締めて全力で制作に取り組んでおりますので、何卒ご理解を頂けます様お願い申し上げます。
9月よりの放送を是非ご期待ください。

レガリア製作委員会

2016年8月 8日 (月)

クラゲと署長さん

 で、宮沢賢治のネタに繋がるわけですが、これは一種のセレンディピティ。

 「クマにあったら」を見つけた書店で、それ一冊だけ買ってしまうと、店員に「なんだこいつは、クマにオブセスされているのか」と疑われるのがイヤで、中高生がエロ本買うときに挟むためみたいに、余計な二冊を一緒に買ったとご報告いたしました(誰にだよ)。

 そのうち一冊は、永井均氏という哲学者の「倫理とは何か」というこれもちくま文庫。人間年取ると、「仲間を求めて」宗教に走るか、「孤独を楽しむため」哲学にはまったりするらしいのですが、あたしは後者らしく、その手の本を色々読み漁りはじめている。
(ただしこの説には裏返しがあって、元々が宗教家や哲学者(というのは稀で宗教(哲学)史者とか研究者が多いらしいが)の場合は、世俗に走りやすいということが最近わかってきた気がする。すなわち、政治の世界に突然興味を抱き始めたりする人が多い気がするのです)

 それと別に、哲学史の本もいくつか読んでいて、「なんか同じぽいのかな」と思って読み始めたのですが、突然、頭をバールようのものでガツンと殴られたような衝撃を受けた。そのことを告白せねばなるまい。

 なお、「バールようのもの」の「よう」とは何か、だけでひとつ記事が書けるし、現代落語にもそのネタはあると過去誰かに教えてもらったのだが、その話は割愛しよう。(誰?)

 哲学の教科書という目的で書かれたものだが、結局そうはならなかった、そもそも哲学に教科書などあるんかい、と著者が告白する(開き直る)まえがきに続いて、哲学について語るとてつもなく偉そうな「猫」が登場するところで、なんだよ、また猫好きの哲学者かよ、どいつもこいつも判で押したように、まったく個性がねえなあ、「ああ、これきっといらんわあ」と失敗を覚悟したのですが、ぱらぱらとめくっていくと宮沢賢治の名前が目についた。

 ここで若干の間、迂回路にはいる許しを得たい。(誰からだよ)
 カドフェスの特製ブックカヴァー欲しさに、無暗に新装版文庫を購入したと前に書いた。いや新装版の表紙がどれもお洒落でねえ、と言い訳しても、特製ブックカヴァーの話と即座に矛盾するので、嘘であることがバレるのだが。

 宮沢賢治のものも二冊ほどあった。過去色々読んできたつもりだったが、自分にとって新しい作品もあった。その後、職場の人と話ていると、どうも自分が読んでいない作品がまだあることに気がつき、それを探すために新潮とか角川の文庫で出ているものはひととおり買い集めた。
(実は、探していた作品は「未完」のもので、それらの文庫には収録されておらず、ネットで探さないと見つからなかったのだ。ご存知の方いるかもしれませんが、クラゲが出てくる、ちょっと不気味な話です)

 まあ、「未完」だったら選から漏れるよな、とその時は納得していた。

 上で触れた、「猫」の出る倫理学の本に登場する宮沢賢治の作品も、今まで買い集めたどの文庫にも収録されていない。
 そうなると、「猫」ほったらかしで、読まないと気が済まなくなる。
 「毒もみのすきな署長さん」という題の作品の、「猫」が述べるあらすじは、こんな感じだ。

 プラハの国では、川に毒を入れて魚をとること(毒もみ)は固く禁じられている。その監視と取り締まりは警察の仕事だ。誰かが「毒もみ」をしているとの噂を知った町長が、警察署長に会いに行くと、署長はあっさり、それは自分の仕業であると告白する。裁判で死刑を宣告され、斬首になる直前、署長は笑いながら「ああ、面白かった。自分は本当に毒もみには目がない。こんどは地獄で毒もみでもやるか」とうそぶく。それをきいて「みんなはすっかり感服しました」。

 もちろん、このお話は「倫理」そのもののアンタイセシス(アンチテーゼ)として登場する。トルストイの(倫理的にベタな結末の)短編と並んで紹介されている。
 そのくらいは、いくらあたしだってわかります。
 そして、「毒もみ署長」のお話が、倫理の問題の核心をついてしまっていることと、なぜ署長に対して「みなは感服する」のか、その問いに答えることができるのかどうか、というのが重大な点であることもわかる。深く考えるまでもなく、また深く考えても、答えられないのでしょうね。

 言いたいことはそのことではない。
 何故、この物語が、通常手に入る普及版の選集にはひとつたりとも選ばれていないのかだ。
 もちろん、ちくまの全集文庫、お値段1万なにがし円には、含まれている(んでしょう、きっと)。そしておそらく、あたしは間もなく買ってしまうのでしょう。これだけ腹を立てていると、なにするか自分でもわからんからな、覚悟しておけ!(誰が?)

 そのこと自体が、とんでもない話のような気がする。
 そうなってくると、もうあたしなんぞは、じゃあ岩波はどうなんだ、どうせないんだろう、とそっちばかり気になって、明日はまた仕事をさぼって(もとい、昼休みにでも)書店でこの目で確認してやろうと意気込んでいるわけです。 

 望めば(そしてお金を惜しまなければ、って欲しいゲームと書籍には一切惜しみませんが)「全集」が手に入るだけでも、ありがたがらなければならないのかもしれない。

 それにしてもひどい。あたしは永井氏のこの本を、エロ本隠しのため(いや、違うだろう)購入しなかったら、毒もみ署長には一生会えなかったかもしれないのだ。

 「クラゲ」の話のほうは「未完」であって、さぞおぞましい展開になるのであろうということだけはわかるが、さすがに「よりぬき」文庫に収録することを選者が躊躇する気持ちはわからんでもない。(未完といえば、有名な「茶碗の中」の怪談もそうであるが、選者の小泉八雲は拾っている)

 「毒もみ署長」は完結しているのだ。不道徳な、悪辣な主人公の話であるから忌避しているのだとしたら、それこそ、この作品のセシス(テーマ)にまんまとのせられていることにはならないか。宮沢賢治が、一般に美化されているような、朴訥で、少年の心を喪わない、澄んだ目をした作家であったというイメージを崩すとでも思ったのだろうか。
 「クラゲ」も(結末はわからないが)、「署長」も、まったくもって少年の心が描いた話だとは思わなかったのだろうか。

 いつの世にも、「善意の」おせっかいな奴らはいる。「倫理的に」押しつけがましいのがいる。どうして読み手に任せずに、お仕着せなものを押し付けるのだろう。そのことが、癪に触って仕方がない。

狩人とカラスと犬

 前回で終わりにしようかと思ったのですが、この話はあまりにおもしろかったので、書いておくことにします。
 
 実は、「アイヌ民族とクマ」、「クマと共存するために」という二章は、表題から「出た、リベラル」と思って後回しにしていました。どうせいつもの、人類は皆兄弟、島国人は征服者、動物愛護協会、似非エコの話でしょうと身構えたからである。別にアイヌ民族に恨みも何の想いもないが、「弱者」と喧伝して蝟集する連中が胡散臭すぎるからだ。
 
 だが、前者はまったくそんな内容ではなかった。インタヴュアーが「アイヌの伝統は貴重ですよね、あなたもそれを守ろうと思っているのですよね」、そう誘導しようとしてはいるのだが、当の狩人のほうは、「迷信は迷信である」、「役に立つことは学ぶし用いる」と割りきっている。
 
 戦争が終わり捕虜生活から帰ってきた時代、収入のために魚釣りをしたかったのだが、河のある一角だけはアイヌの「呪術師」のなわばりになっていて、「勝手に釣ったら呪いをかけられる」と皆おそれて近づかない。ひとり狩人だけは「迷信だろう」と意に介せず、その「呪術師」と競うようにして釣る。怒りの形相でにらみつけられるが、結局何事もなかったのだという。
 
 果たして兵隊生活が「合理的発想」を育んだのかどうかわからないが、むしろ「国のために戦ってきたが、補償も何ももらえなかった。だから自分は好き勝手やる」という反骨精神のほうが強かったような気がします。
 
 一方で、アイヌの先達から教わったしきたりには、必ず守るものもある。倒したクマの屍はほぼ漏れなく活用するが、肺臓だけはヒトは食べない。それをいくつもに細かく刻んで、そこらの枝にきちんと引っ掛けておく。そうするとカラスがついばみに来る。いくつもに分けるのは、ボスのカラスだけがいい思いをしないようにするためだそうだ。均等に群れのカラスに行き渡るようにしておく。
 それを続けていると、カラスは次から山に入った狩人に、クマの居所を教えるようになる。普通鉄砲を担いだハンターには近づかないのだが、クマ撃ちに行く狩人は、決してカラスに鉄砲を向けないから、安心してついてくる。そうしてクマのねぐらの穴などの場所を、空の上から教えてくれるのだそうだ。
 あるときは、カラスが一羽、狩人の後ろからずっとついてきた。連れのアイヌ犬とともに、お伴になったようなものだ。
 
 その話があまりに印象的なので、もしかして桃太郎の物語のキジって、本当はカラスだったんじゃないのか、と思ったくらいだ。なぜならカラスが相当賢いのはもちろん知っているが、キジがそんなに賢いとは思えないから。だって良く言うじゃない。「キジも鳴かずば撃たれまい」。
 
 さらに、犬とカラスを従えて森を進む狩人の姿って、何かに似ていると思いませんか?
 ん、おたくRPGファンじゃないの? そそそ、レンジャーでしょう! アニマル・コンパニオンでしょう。(まあ、本来はオオカミを従えるほうが多いのだけど、犬もオオカミの末裔ということにしといてください。いや、ハムスターは違うから)
 
 その他にも、キツネは嫌いとか、フクロウは嫌いとか、それも部族によって好き嫌い(吉兆であるか凶兆であるか)が異なっているとか、どうぶつ関連のネタが素晴らしく、狩人の朴訥な語り口が誰かに似てるなあとずっと思っていたのですが、それらを読んでハッキリしました。
 宮沢賢治の童話なんですね。
 知っていることしか話さない。知っていることを話し終わったら、もう余計なことは言わない。それって実は、いたいけな子供たちが皆そうなのですが、やがて知ったかぶりをしたり、邪推をしたり、ハッタリをかましたり、嘘をついたりしはじめる。それが「ずるい大人になる」ということなのですが、そういうところがまったく、呆れるくらいないのです。
 
 それから、長くなるので細部は省略しますが、狩人と連れのアイヌ犬の話も、読んでいるといちいち嬉しくなってきます。狩人は、兵隊では軍用犬のおもりをする軍犬兵だったので、犬の気持ちはよくわかると言いますが、どうもそれだけではない気がする。
 犬が獲物を追いかけて行ったら、狩人は何時間でも、半日でも森の同じ場所で待つ。やがて犬が帰ってきたら、得物を仕留めたかどうか、その「表情」でわかるという。捕まえたのなら、笑っているようにみえる。早く見に来いと狩人をせっつく。失敗した時は情けない泣きそうな顔で戻ってくる。
 
 狩人の言うことは良く聞くが、クマ狩りに連れて行かなかったりすると、不貞腐れて腹を立てる。帰ってくると犬が笑っているのでどうしたのかと見てみると、家で飼っていたウサギや鶏などが皆噛み殺されて山のように積まれている。ただしよその家の家畜には手を出さない。自分を連れて行かなかったから仕返ししてやった、そう言っているのだそうだ。
 
 あまりに「人間臭い」、というのは間違った表現でしょうが、そう言うしかないではないですか。
 
 インタヴュアーは、クマ狩りの後、神の魂送り、送りの儀礼をするのでしょう、としつこく聞くわけですが、狩人はもちろん永年培ってきた技倆を発揮して、きちんとした儀礼を行います。ただしその理由は、伝統を守るということだけではない。自分の家族に対して「自分は狩人で生計を立てているが、獲物のことはちゃんと葬っているから心配するな」と示す意味がある。シャモ(和人)のイタコなどが、「狩人の家には悪霊が沢山ついている」などと脅して、ひっかけようとする。家族がまんまとのせられないようにする防衛的な意味もあるのだという。
 クマとの命がけの知恵比べに比べれば、小賢しいヒトが用いるひっかけなどは、彼にとってはとても読みやすいのでしょうね。

2016年8月 7日 (日)

キムンカムイ

 ガルパン劇場版のオンライン・レンタルがAmazonでもPSNでもGyaO!でも始まっていたので、どれで観ようか悩んだけど(お値段みな一緒)、TVシリーズもプライムで観ることができるAmazonで。
 いやあ、立川シネマで観た感動もう一度、というかものすごくスピーディーな展開の映画なので、劇場では細部なかなか追いつかなかった部分も良くわかりました。

 やっぱ、いいっすよねえ、かいちょー。「かーしまー、長い」(笑)。あたしの推しメンは秋山殿ですが、そうじゃなくて、けっこー作り手の依怙贔屓がきついのが、観直してみて良くわかり笑ってしまった。劇場で観たとき、大島国帝国の戦車(突撃バカの先輩殿と優柔不断な隊長殿)が妙に鼻についたのだが、BT戦車やタンケットの活躍など、結局全部が判官贔屓なわけだ。クルセーダーいくらなんでも速すぎるし(笑)。
 対するチャーフィーはともかく、パーシングまでもがモブの扱いなんだね。

 BD購入はおまけOVA期待で英語版にしようっと。(そもそも出るんかい!)

 その映画の「ぼこクマ」繋がりというわけではないが、書店で「クマにあったらどうするか」というちくま文庫を見つけた。2002年に単行本で出ているので、新作というわけでもなく、文庫化は二年くらい前。

 リアル書店に立ち寄った目的は全く別で、出張中に暇つぶしで読んだ英語の翻訳に関する本「英語の発想」(ちくま文庫)の内容が、あまりに我が意を得たりであったので、同一著者の別の著作を探しに行ったのでした(そちらは見つからなかったのでAmazonで注文)。

 しかし、「クマにあったら」だけ買うのもどうかと。なんだ、この客はどうしてこんなことを気にしているのだ、(そのJR駅ビルの書店がある)大都会のど真ん中で、クマに出くわすわけないではないか。それとも何か、こいつは夏休みにでも、ふつうにクマが道路を走るトーホグのど田舎にでも帰るのか、格好つけているけど田舎もんか、と思われるのも癪である。仕方がなしに、いつかは読むだろうと思って、関係ない余計な文庫も二冊ほど一緒に買ってしまった。中高生のあんちゃんが、近所の書店でエロ本買ってるんじゃないんだから。 

 読み始めたら、これが異常に面白い。副題は「アイヌ民族最後の狩人 姉崎等」となっており、TVドキュメンタリーにもなったらしいので、ご存知の人はいるかもしれない。

 ただし、私が気になってしょうがない本州のツキノワグマではなく、北海道で狩人たちが相手をしたのは、はるかに大きく、獰猛と言われているヒグマ。アメリカンで言えば、"The Revenant"でデカ様もといレオ様をぼこぼこにした、グリズリーの親戚だ。
 グリズリーの場合は、強敵オオカミの群れ、ウルフパックがあちらではまだ健在なので(あるいは絶滅した地域への再導入に成功したので)、森で無敵状態というわけではないようだが、オオカミが絶滅した北海道では、ヒグマはヒト以外に天敵なし。森の王者。森の神。

 そして、秘かに読もうと思って買っていた、吉村昭の「熊撃ち」(ちくま文庫)もまた、実在の狩人やハンターたちの取材に基づく七つの熊撃ちの物語。そのうち六つが羆(ひぐま)撃ちの話で、出だしは非常に面白いのだが、求めていたものとちょっと違うかなと思って中途で留め置いていた。
 なお、吉村昭にはさらに「羆嵐」という、実際に起こった陰惨な人食い熊の事件を元にした長編小説もある。著者自身によれば、「熊撃ち」の執筆のための取材を通じて着想された「副産物」だそうだ。いずれ読むことになるのでしょう。

 これほどクマにオブセスされているのはなぜか。実際には、「人里に降りてくるクマ」が気になってしょうがないのであり、どうぶつとしてのクマにさほど興味があるわけでもない。だから、タヌキでも、イノシシでも、シカでも、なんでもいいのだが、暴れたときの破壊力と言ったら、やはりクマには勝てない。組織化されたサルが山里に出たら怖いだろうけど、今までそんな事態があったとは聞かない。

 人里に「降りてくる」という表現が示すように、島国ではクマは「山」にいるもの、という先入観がある。やれ森林伐採だ、高速道路だ、環境破壊だ、人のおごりが災厄を招いているのだ、またエコテロリストどもが騒ぐようなネタだとしたら、それにも一切興味はない。そういった環境破壊で何が起きるかといえば、オオカミのように、あるいは多くの昆虫たちのように、ヒト知れず種が滅んでいくだけだ。
 今のクマ騒ぎはそうではなく、個体数が増えすぎたことに起因するらしい。つまり一時的とはいえ、繁殖、棲息にとって環境が良すぎたのだ。それがとても逆説的で、なにか皮肉っぽくて、だから興味深いのだと思います。

(余談:本州で最後のニホンオカミが確認されたのは20世紀劈頭で、島国に「産業革命」が持ち込まれた頃だ。それ以前から、住居用、燃料用などのための森林伐採で、島国の森が大変な状態になりつつあったのは良く知られているところでしょう。
 古来文明の都は、周辺の森林を伐採して繁栄し、やがて森林資源が枯渇して滅ぶか、遷都を余儀なくされるのである。島国も例外ではない。
 島国は、あわてて森林を復活させようとして、やみくもに植林(人工林)事業をはじめたのだが、針葉樹ばかり植えてしまい、それが木材需要の低迷によって放置され、森の植生が激変した。その帰結として原生昆虫などの種の絶滅を招き、餌を求めた野生動物は人里に降りてくるようになった。あと花粉症(笑)。
 森に生きていればヒトに害をなすことも稀であったニホンオオカミも、害獣扱いされて徹底的に駆除されたのが絶滅の直接の要因でしょう。
 なお、北海道のエゾオオカミも1900年あたりに滅んだとされ、こちらは入植者による乱獲が原因のようだ)

 さて、「クマにあったら」ですが、基本はひとりの狩人に対するインタヴュー形式となっている。クマ狩りの話に行き着く前に、オスカー受賞作の"The Revenant"で一部描かれたような、山の歩き方、生き方(死なない方法)、「アウトドア・サヴァイヴァル」の知恵と技術の記述が続く。これが微に入り細を穿つようで、ちょっとくどいかなというくらいだが、いかにも面白い。
 もっともこの狩人は、屯田兵の父とアイヌの母の間に生まれた「混ぜ煮」であったため、アイヌの伝統はつまはじきにされて教えてもらえず、そのうえ早くから父をなくしたせいもあって、家計を支えるために尋常小学校もろくに通えなかった。 古代の伝統も、近代の教育も人から教わることはなく、ほとんどが自学自習で会得したのだそうです。

 「クマより怖い貧乏」と本人が語る困窮生活から抜け出すために、若い頃は毎日狩りや釣りをしてその収入で暮らし、兵役で赴いた樺太ではロシアン戦車(T-34 でしょうかね、85ミリ砲の)との戦いに辛うじて生き残り、捕虜生活を終え帰国してからは、米軍キャンプなどを含めありとあらゆる仕事に就いた。それらの細かいエピソードもいちいち面白いが、結局、最終的に最も収入になるとわかったのはクマの毛皮だったといいます。当初は苦労に見合うだけの値段ではなかったが、島国が復興し、繁栄し始めると、まるでバブル経済のように高騰していったというのも興味深い。

 どうやら優秀な(死なない)狩人になるためには、とにかく山を歩いて地形を覚えることが秘訣のようだ。コンパスや地図に頼ると迷うので、まったく目が利かない真夜中でも自分がどこを歩いているのか即座にわかるように地形を頭に叩き込む。やがて天候の変化まで読めるようになる。天候が荒れたら無理をせず安全な場所に留まる。けものたちも荒天下では迷うのだそうだ。
 次に、実際のクマの行動を観察することで、生態をとことん知ることが大事であるようだ。顔を見ればクマの個性、雄雌の区別、表情までわかるようになるという。つまり、自分がクマになりきって、その行動を考えているということでしょう。この狩人がひとりで行動することを好むのは、倒したクマの内臓に残った未消化の食べ物までじっくり検分するためもある。他に仲間がいると、なにを無駄なことをしているのかとバカにされ、早く里に戻ろうとせかされてしまうのだそうだ。 

 結構ヴォリュームのある本なので、この調子で紹介していくときりがない。気になったところをかいつまんで書いてみます。

 クマを指す「キムンカムイ」とは、里山の神の意味。アイヌの発想では、クマは山奥にいるのではなく、村のすぐ側の山で、ヒトの暮らしを見ながら遠巻きにして生きている。逆にヒトからクマの姿を見ることはまずできない。

 ヒトがクマを恐れるように、クマも強敵としてヒトを恐れている。

 なにかの都合でヒトを襲って食ってみた個体が、ヒトを狙って襲う人食い熊になる。そうなるとヒトを恐れず、逆に向かってくるのでハンターたちには仕留めやすい。未熟な若いクマに多い。

 家畜を襲うクマは、依然ヒトは怖いと考えて警戒しているので、なかなか捕まらない。自衛隊が何十人出ても無駄足になる。

 クマの知能は相当高く、狩人の追跡をまくために、クマ以外には通行困難な進路を選ぶし、足跡などを偽装することもある。高地に潜んでハンターたちの動きを観察し、その逆をとることもある。

 狩人として装備に気を遣う点は、できるだけ軽装であること(食糧は飯盒で炊く米、塩、味噌、非常用のハムがあれば足りる)。着火する手段(ビニール袋で防水したマッチ)を欠かさないこと。火が上手に扱えないと、ときに死に直面することになる。
 携帯品で重要なのは、クワと呼ぶ先割れの棒。クマ穴を探る時に使うもので、銃の支えにもなるし、杖にもなるし、色々と使い勝手が良い。ナタ、短いノコは木を捌くための必需品。ナイフ、細引き(紐)、テント代わりになるビニールシートなども持ち歩く。

 長靴、ガンジキ、ジャンパー以外に特別な装備などはないが、クマと誤認されるような黒い帽子や上着、毛皮などは身に着けない。恐ろしいのは、ヒトのハンターに誤射されることだ。幸いにして山のけものは派手な色彩には無頓着なようなので、他のヒトと一緒に山に入るときは、「赤」などの自然にはない色を身に着ける。「白」でもいいが、シカ撃ちのときは逆に獲物(のおしり)と誤認されやすい。
 この狩人も、黒い帽子を被っていたら他のハンターに遠くからライフルで狙われたことがあるという。「(そのハンターが)撃たなかったからよかったけど、そういうときって当たるからね」(笑)。
 不慣れなハンターは騒々しいだけで、無暗に発砲して、クマを逃がしてしまう。この狩人がひとりで行動することを好む別の理由。あ、ひとりと、あとアイヌ犬一匹か(犬も米を食べる)。

 できるだけ一発で倒し、とどめと称して何発も撃つことはしない。そういうことに慣れてしまうと度胸が定まらなくなるし、撃つべき時でない時に無暗に撃ってクマを逆上させ、返り討ちに会う危険さえある。よってこの狩人の場合、当初は連発式のライフル銃ではなくて、ほとんど鉄砲のように見えない、一発づつ再装填が必要な村田銃(ライフリングはされているが装填数一発のボルトアクション)を好んで用いていた。(村田銃にも連発式のモデルはある)

 手負いのクマが最も危険である。逃げているのは「手負い」ではない。手負いというのは、撃たれてもうほとんど動けなくなっているクマのことで、追っ手(ヒト)がすぐ近くまで寄ってきても、確実に返り討ちにできない限り動かない。だから、手負いに襲われるのはヒトが確実に倒される瞬間ということだ。クマも「死んだふり」をする。

 運悪く、近距離で対峙してしまったクマを撃つときは、大声で威嚇しつつ、無防備を装って、相手が落ちつくのを待つ。クマが荒ぶっているとき撃つと、たとえそれが致命傷になっても、相手が最後の一撃を繰り出すパワーを溜めているから相討ちになってしまう。クマは顔半分が吹き飛ばされる致命弾を受けても、脳が無事なら即座に死ぬことはない。脳は意外に小さいので仕留めるためには眉間を撃つ。
 緊張を解いたクマには、撃たれてから反撃するチャンスはない。上述の連発銃を持っていると、荒ぶる状態のクマを恐怖心から撃ってしまい、最後の一撃を喰らう危険が増す。

 最後に、クマとであったらどうするか。一応は以下のような教えが示されていますが、クマには個性がある。この狩人が経験から学んだ、クマの一般的習性に基づいているのですが、危険に遭遇したヒトの行動だって様々なわけだから、ケース・バイ・ケースであることは強調されなければいけないでしょう。
 大きなクマのほうがこれまで注意深く慎重に生きて来たわけだから、逆にヒトにとっては安全な場合が多い。子連れの雌は子グマを守ろうとして気が立っているし、若く経験の浅いクマは無鉄砲で怖い。

 予防のためには、①ペットボトルを押してペコペコさせるなど、妙な音を立てる。②木を細い棒で縦に叩いて音を立てる。
 出会ってしまったら、③背中を見せて逃げない。④「ウォー」と大声を出す。⑤じっと立っている、⑥腰を抜かしても良いから身体を動かさない。⑦クマをにらんで目を離さない。⑧相手が子連れの場合は、親だけを見て静かに後ずさる。雌クマが地面を叩いて、バーンという大きな警戒音を出したら、すみやかに立ち去る。⑨クマはヘビがキライ。ベルトを揺らす、釣竿をヒューヒュー鳴らす、柴を振り回す(自転車のゴムタイヤ、自動車の窓のゴム枠などのように、ヘビと似たものを振り回す、投げつけることも有効)。⑩柴を引きずって静かに離れる。

 「死んだふり」が有効かどうか。じっと立っている、腰を抜かしても動かない、などの教えに即しているので、一般に効果はありそうだが、その場合は、クマが立ち去ったと思っても、十分長い間静かにしていなければならない。しばらくするとまた確認に戻ることがあるそうだから。これは、映画"The Revenant"のグリズリーが、同じような行動をしていたので、あちらのクマも一緒なのかもしれない。

 とにかく背中を見せて「逃げない」のが大事なようです。クマは60キロくらいのスピードで疾走することもできるそうですから、ヒトが逃げ切れる可能性は低い。また木登りが得意なので、木に登ろうとするのも(背中を見せているわけですから)やめたほうがいい。

 タバコの臭いがキライなど、匂いには敏感なので、最近流行の「クマスプレー」も効くのでしょうね。もっとも、あれはトウガラシのエキスなので、狭いところで無暗に使うと、ヒトのほうが参ってしまうそうですが。

 もちろん、出会わないのが一番で、地元の専門家から危ないと言われているのにタケノコを取りに入れば、それ自体が危険なのは自明でしょう。といっても、クマがふつうに道路を走っているところに住んでいれば、そんな第三者的な考え方は、何の役にもたたないわけですが。

 そしてヒグマの知識は色々と参考になりましたが、そのままツキノワグマにも応用しようとすると、これがまた知ったかぶりで頭の悪いヒトの傲慢さを示すことになるんでしょうね。

 自分や他の知り合いが経験した事実だけに頼る、「クマこそ自分の師匠である」と考える、この狩人の奢らない謙虚な姿勢が、一番参考になったといえるかもしれません。

2016年8月 6日 (土)

ちはやふる

 出張の機内で、「ちはやふる」上下を観て泣きました。
 もちろん、すずちゃん目当てで、気合入れて観ようと身構えてはいたのですが、それに関わらず、なぜかじわじわ泣けてくる。

 なぜそうなのか、いつも自己分析はなかなか難しいんですが、カルタ競技の側面で言うと、団体戦の「チームワーク」が、類似テーマの作品群とはちょっとひねって描いてあること、その成績と「個人戦」成績との兼ね合いが悩ましいこと、ここら辺が上手に描かれていて、ツボにはまったのかなあ、と思いました。

 不肖わたくしも、遠い昔、小学生の頃はカルタ大会でぶいぶい言わせていた口ですが、もちろん、競技カルタのようなアクロバティックな札の取り方はしていませんでした。
 句をひととおり覚えておけば勝ち、しかも詠み出しの最初の音(劇中では最初の子音の、発語の瞬間)で判断するなどという際どい戦いもなかった。ごく普通に優雅でのんびりした「百人一首大会」でした。

 原作は(アニメもあるらしいがそれも)知りませんが、映画内では、表題の句を含めて、二、三の句しか、「解釈」がされていなかったのが不満には感じました。
 (少なくとも映画版の)テーマは、「のだめ」に酷似した「才能豊かな女性主人公はじめとした、メンバーのど根性もの」であり、また少女漫画の王道ともいえる「幼馴染のラヴロマンスもの」。
 カルタの句も、それに合致したものしかクローズアップされないのは、物語上仕方がないのでしょうが、カルタにまったく縁もゆかりもなかった人でも、(本当の島国人なら)心に響きそうな句は他にもいくつかあるので、ちょっともったいないですよね。

 ただし、百首のカルタのうち、ラヴロマンスが60%程度であるというのは初耳。直感的に80-90%くらいあってもおかしくない気はしたんですが、それは万葉集などと混同しているからかもしれない。

 しかも作中で取り上げられるのは、ストレイトフォワードなものではなく、かなりトリッキーな句。「ちはやふる」自体がそうですが、解釈はいくつかある(というか、和歌とは、元々そういうものですが)。

 なお、機中版でしたので、英語字幕がボーナスで愉しめました。というか、和歌の英訳は、もちろん「絶望的」です。(ある解釈に従った)主意しか示せない。「ちはやふる」が「ちはや」ちゃん(とチームメンバー)の(ゲットすべき)句で、「しのぶれど」が「しのぶ」ちゃんの句という設定は、島国人なら説明自体が無意味というか冗長なのですが、ガイジンだと耳でわかれというしかない。わかんのかどうなのか、ガイジンには聞いていないのでわからない。

 ということで、BD購入は英語版とすることにします。(そもそも、出んのかよ!)

 そうそう、トーナメント戦で「和装」というのは、実際はありえないのでしょうが、素晴らしい着想でしたね。女子だけではなく、野郎の和服もなかなか(いや、お前そっちはちゃんと観てねえだろ!))

 終わるのが「勿体ない」と思った映画は、久々でした。(続編あるらしいけど?)

 それもあって、映画のすずちゃん他女性キャストに贈るのは、もちろん次の句でしょう。

  あまつかぜ 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

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