フォト
無料ブログはココログ

2017年9月20日 (水)

セマイ(セミ)リタイアでプレイして何が悪い。

 出張から戻った後の連休。ふと気がついたら、あたしはアストルティアの大地にいた。

 なにがどうなってこうなったのか記憶が定かではないが、出張前にDQXIのPS4画面のPR、別名「口車」にのり、うかうかしているうちにDQXのお試し版ダウンロードを始めていたようだ。
 一週間ぶりくらいにPS4を起動すると、すっかり忘れていたそのインストールが完了したというお知らせ。
 出張の代休まで使ったリッチな四連休。他にやりたいことはたくさんあるけど、どうせ暇はふんだんにある、ちょっと覗いても罰は当たるまいと、うっかりログインしてしまったらしい。

 ま、言ってみれば、これだってそんじょそこらのMMOでしょ。洋物の見た目無駄にグロテスクなやつとか(あれ)、これ作った奴バカァ?なプアな仕様のやつ(あれあれ)とか、コンテンツ全部開放するのに人生一回かかります、嫌なら代わりに金払え的なやつ(ほぼ全部か)に比べたら、絵柄がちょっとこじゃれているのと、島国らしく痒いところまで手が届く親切設計と、最初から五つの種族から選べます!的な大盤振る舞いがよさげなくらい?
 超有名サイファイ・スぺオペ大作を鳴物入りでゲーム化したのはよいけれど、初期ローンチが思わしくなく商売成り立たず、いきなり課金ゲーに移行して噂じゃ今ではすっかり別物になってしまい、運営を主導していた某社創業者の片割れが責任を追及され石もて追われ、あげくうだつのあがらない地ビール屋に身をやつすようなこともないだろうし(あれね)

 あと、ようやくPS4も加わった正真正銘のマルタイ(マルチ)プラットフォーム! やったね、これでビッグNは性に合わないと手を出さなかったお友だちとも遊べるね!という点が再ブーム(今までブームがあったかどうかしらないけど)のきっかけになるというところでしょうか。Switchの話はするな。
 んまあね、どーせ体験版だから、色々とできないことがいっぱいあるんでしょうけどって、スムーズな流れにまかせてすこすこ進んでいくと、その先も見たいんだけどここでストップするとか何してくれんのと、だんだんイライラしてくる。

 しばらくしたら、いつの間にか知らないうちにオールインワン版(有料)までダウンロードしている!
 
 MMO/MOからリタイア宣言して、かれこれ10年近く。大橋巨泉(誰も覚えちゃいねえよ)じゃないが、「自分はリタイアした、もうリタイアした」といばるために、その都度メディアに出てくるアホと変わらんのじゃないかこれ。ところが、そういうのはセマイ(セミ)リタイアというそうだ。なんだそれ。

 言い訳すると、これたぶん堀井さんが書いてるわけじゃないね、シナリオ。そこが新鮮で特によい。もちろん、いい加減リアルな世間に目を向けろよな大きなおともだちや、刀折れ矢尽きた人生敗残者のさらりまんのおっさんたちだけではなく、いたいけな少年少女のおともだちもキッズ・アワーで楽しくプレイできるように、「Vジャンプ」的モラル縛りはしっかり残っている。あと、あいかわらず「出てくるじじいが例外なくとにかくウザい」のは、その部分については堀井さんのアイデアだろう。

 もっとも本当の理由は薄々気づいている。先日知り合いと飲んでいるとき、酔った勢いで昔プレイしたMMO/MOの「武勇談」(笑)を披露しているうちに、昔取った杵柄、もういっぺんあの楽しみを体験してみたいと無意識に思っていたのに違いない。よせばいいのに年寄りの冷や水、突然はじめたもんだから、あいててて腰が(それそれ、それが堀井節だっつの)
 
 数えきれないくらいの豊富な物語を楽しむくらいなら、セマイ・リタイアの身でも許されるのではないだろうか。しかもゲームのメカニズムさえわかれば、ある程度はソロで(最初にもらえる三人の「ロボット」と一緒に)進むことができる。
 ソロプレイでどこまで進めるのか定かではない。できることはできるが多大な労力(むしろゲーム内通貨、すなわちタイム・イズ・マネー、プレイ時間)を必要とするという説もある。そもそもソロでは解けないコンテンツがあるとも聞く。
 それ以前に、まだ第一章(Version1)の中途だ。今後第四章も出てくるちうに、やる暇あるんかこれ。
 
 最初の「種族」選びでは、運営一押し?のドワの姿がどれもいちいちクールで恰好よいので最後まで決められず、仕方がないのでいつもどおりエルフ小娘にしちゃいました(笑)。これまで自分が経験したMMO/MOのPCって、全部ヒトかエルフ・・・。
 PCの「職業」は、三十秒くらい悩んで「魔法使い」。DnDパラディン命のあたしですけど、他のゲームのパラディンは一切別物なので特に気にしない。いけるところまで「ソロ」でいくと決めた以上、自分のDPSが最重要。DQ本編(コンソールゲー)からみてたぶん魔法使い系だろう、とあたりをつけてみた。ここまでのところはうまく行っている。結局メラミ連発だけど。

 DQ本編おなじみの転職を試すことができるので、まず無難に「僧侶」。この後「賢者」などの上位の職業がどんな感じでもらえるのか知らないし、「僧侶」のソロをやってみるとDPSがさほどないので結構きっついんだけど、ま、パーティーでお呼びがかかりやすそうだし(ソロでやるんちゃうんかい!)
 その次に、タロットカードを駆使して闘うDQIVミネアさん似の「占い師」とかいうのが面白そうでうっかりなっちゃったら、これに限ってはログオフ中に酒場登録できないんだとか。酒場登録とは各プレイヤーが遊んでいないときのPCを他のプレイヤーに(AIロボットとして)レンタルできる(レヴェル次第で有料になる)システムで、それ自体の稼ぎはどうってことはないのだけど、え、なんで?

 調べたら、「占い師」は第三章から導入された新職業。古い章には遡及できないってことなのか・・・。いやそれとも、タロットを駆使するロボットAIが組み切れてないってこと?
 なにそれ聞いてない。
 さらに新職業だけあって、使いこなせるようになるまでの習熟(と必要品のお買いもの)のために相当時間がかかる。ひととおり既存コンテンツを済ませた人用でしょう。仕方がないから適当なところで一旦断念。

 この脇道でかなりの時間を無駄にして、魔法使いの成長が滞ってしまった(プレイ自体が人生の無駄ということはわかっております)。
 あわてて原職に復帰したはいいけど、今度は謎の「金○一少年シリーズ」みたいな物語に知らずに突入。中身はまあまあ面白かったけど、手に入ったのは報酬のピアスくらい。目先を変えた実験的な、チェンジ・オヴ・ペース用のコンテンツだったらしい。なにそれ聞いてない。
 
 ローンチから5年も経っているので、今更始めると置き去り感もアウェイ感もなにそれ聞いてない感も半端ない。ところがDQという軸のおかげでなんだか許せてしまう。とにかく、単純なお遣いクエストでさえシナリオは普通に面白いので、次でやめよう、次でやめようと思いつつ、なかなかやめることができないまま、連休中映画を観に行くこともできずにすっかり没頭してしまいました。

 なお、3DSのお試し版もプレイしてみたところ、プラットフォームごとに課金が別にかかることを除いても、あんまり画面がちっちゃーいので、若いときは編隊内で真っ先に敵機を発見できるくらい良かった視力が、最近どうにもおぼつかないあたしには相当辛い。歯を食いしばってがんばってると、いつの間にか入れ歯がはずれてふがふが(堀井節やめろよ)。

 ソロプレイといいながら、せっかく同時ログインしているプレイヤーとの交流もあったほうがいいのかなあ、とか思ってフレンド希望も出しておく。こちらから「フレンド希望者」のマークが出ている人をお誘いすると、二回に一回くらい断られるけど・・・。フレンド希望ちゃうんかい(何かが気に食わなかったんだろう)。
 普通にプレイするならコンバットをガリガリにつき詰める必要もなさそうだけど、ま、いずれちゃっかり人の手も借りようというずるい大人の発想(ソロちゃうんかい!)
 問題は、PS4ではチャットがものすごく大変なこと。フレンドになってくれた人と偶然同じダンジョンに入って挨拶されたのに、こちらといえば戦いの真っ最中で、あわててチャットリストから適当な「せりふ」を探しているうちに、お供(AIロボット)の魔法使いがいきなり瀕死(笑)。返事できません!
 仕方がないんで、チャット用のポータブル・キーボード注文しちゃいました(もはや泥沼にどっぷりやね)。

 そして最後の最後に、実はとっくにWindows版があることを知って愕然としたのであった。なにそれ聞いてない。

2017年9月17日 (日)

DA: Knight Errant #4、#5

 うっかりしてたら、DAコミックスが完結していた・・・。
 んまあ、期待はしていなかったけどね。

Ke4
 相変わらず表紙はいいのだが。

Dake4
 中身がショボすぎて、一枚選ぶのも一苦労。

 ヴァイカウント・ヴァリックと、プリンス・セバです。一応ね。
 ちうか、出世しとるなあ。 意外な二人が。

 記事数稼ぎたかったところだけど、面倒なんで続けて最終巻。

Ke5_2
 相変わらず表紙はいいのだが。

Dake5
 とっても残念なことに、将来の物語をほのめかす部分はごくわずか。

 テヴィンター帝国がレッド・レリウムにご執心とか。
 少なくともDAIの(DLCの)最後には帝国がメンションされていたし、レッド・レリウムは、これからもずっと引っ張るネタだろうし。特に目新しい展開でもないですね。

 んまあ、ML曰く、「次作はDA4なんて言ってねえし」だそうなんで、やっぱ予想どおり、次回作はDA カードバトル、"Dwent"でしょうかね。他人のふんどしで相撲を取るようになってしまったから、BioWareも。 

2017年9月16日 (土)

Dunkirk(映画コメント編)

 ノーラン監督は、アンタイ・クライマックスな史実を題材に、アンタイ・クライマックスであることを示すため、そして同時に「映画としての」クライマックスを持ち込むため、いくつもの仕掛けを持ち込んでいる。そのうち最大のものが「時間軸」の操作だ。
 これをうまく説明するためには、核心的なものは避けるとしても、どうしてもある程度のネタバレが入ってしまう。あらかじめ警告しておきます。
 
 映画冒頭から、「絶望」そのものが描かれる。ダンケルクの砂浜は、来るかどうかも分からない救援を待つ若い兵士たちと、すでに死んでしまった兵士たちの死体で満ちている。
 「母国」(home)は目の前に、すぐそこにあるはずなのに、そこに戻る手段がない。カフカ的な、あるいはカミュ的な不条理の世界をヴィジュアル的にも意識したつくりだ。
 港町の周囲には敵が迫り、防衛する仏軍がいつまで持ちこたえられるか、いつヒトラーの気が変わって大規模な掃討戦が開始されるかわからない。
 ただ銃声と銃弾以外、敵の姿をほとんど見せないことも、こうした不条理感を醸し出す細工だ。
 
 "The Mole ― One Week"
 "The Mole"とは、砂浜から海に突き出している突堤のことだ。何の変哲もない、粗末でところどころ傷んでいるそれが、兵士たちにとっては母国に繋がる唯一のか細い「希望」だ。
 突堤では、海軍から派遣された中佐(注)が救出作戦を監督する。40万人の派遣軍兵士たちを代表するのは陸軍大佐。救援船は一度に一隻ずつしか現れない。
 
(注)モデルとなった実在のカナディアン将校(軍籍は英海軍)は、自らこの任務を志願したという。そして任務終了後に英本土に戻る途中、乗っていた船が敵の空爆のため沈没、戦死してしまう。
 
 "One Week"は、長い者では一週間ここで待ちぼうけを喰らわされている、という意味だろう。だが、最初にこの字幕が出るとき、本当の意味はまだわからない。
 
 砂浜には、ナチスの戦闘機や急降下爆撃機が散発的に、あたかも気まぐれな憂さ晴らしをするかのようにやってきて、救出を待つ兵たちの列に爆弾を落とし、機銃掃射を見舞っていく。
 ”Where's the bloody air forces?” 英空軍は一体何をしてるんだ!
 
 急降下爆撃機の攻撃をからくも逃れた主人公の若い兵士たちは、負傷兵を運ぶ衛生兵を装って救援船に潜り込もうとする。見つかって追い出された彼らが下船した直後、兵士を満載した救援船が出航のため突堤から離れようとするとき、敢えてそのタイミングを待っていたに違いない、姿の見えないUボートが放った魚雷を受けて沈没しはじめる。海軍中佐が船を突堤から遠くに離せと叫ぶ。すぐ横で沈没してしまったら、大型船は二度と着桟できなくなってしまうからだ。
 
 次の救出船が現れるのはいつになるかわからない。英海軍は一度に一隻の駆逐艦しか派遣しない。英空軍の上空支援も極めて限定的のようだ。たとえ救援船に乗り込むことができたとしても、上空には独空軍(ルフトバッフェ)が我が物顔で飛び回り、海中にはUボートが手ぐすね引いて待っている。砂浜に残ったとしても、ダンケルク周辺を守備する仏軍は徐々に押し込まれていて、いつ敵に突破されるかわからない。
 
 どんな形で死ぬのかはわからない。だが、取り残された兵士たちが間もなく死ぬことはもはや確実のようだ。
 
"The Sea ― One Day"
 最初の"One Week"とここの"One Day"に共通した何かの意味があることがわかる。"One Day"は、英仏海峡を船舶で往復するのに要する時間のことだろう。
 
 英本土、英仏海峡に面した港町では、英海軍が民間船舶の徴用をはじめている。遊覧船、貨物船、漁船、ヨット、プレジャーボート、海に浮かんで、兵士を載せることができるなら委細構わず、ありとあらゆる種類の船が徴用されていく。
 ウェイマスはそうした港街のひとつ。自分のボート(ムーンストーン号)を海軍の人間に操縦させるのを快く思わないとある老紳士(ドウソン氏)は、ボートを自分自身の手で操縦してダンケルクに向かうことにする。若い息子と、勝手に乗り込んできた息子の友達を乗せて。
 ダンケルクへの途中、転覆した沈没船にひとりで座っている兵士を発見する。ボートに乗せることにした老紳士に、兵士は名前も名のらず、ダンケルクに向かってはならない、自分は戻らないと言う。あそこに待つのは「死」だけなのだから。
 
"The Sky ― One Hour"
 これで三つが出揃ったことになる。一週間、一日、一時間。この時点では、その全体にどういう意味があるかわからないけど。
 "One Hour"は、英空軍の戦闘機が、ダンケルク救出を支援するため上空にとどまれる時間のことだろう。
 
 スーパーマリン・スピットファイア戦闘機の三機編隊が、ダンケルクの救出作戦を支援するため派遣される。間もなく三機は、メッサーシュミット戦闘機二機の編隊に遭遇する。
 接敵し、空中戦がはじまる。フォーティス・リーダー(隊長機)が敵一機にかかり、フォーティス・ワン(パイロット・ファリア)とフォーティス・ツー(パイロット・コリンズ)がもう一機と格闘戦を繰り広げる。敵機を撃墜したものの、自らも被弾してしまったフォーティス・ワンの燃料計が故障する。ファリアは僚機の燃料残量を聞き、その数値と現在の時刻をコックピット・パネルにチョークで記入する。
 フォーティス・リーダーと連絡がとれないため、付近の捜索を始めた二機は、間もなく海中に墜落した隊長機を発見する。
 
 さらにダンケルクに向け飛び続ける二機は、ハインケル爆撃機と護衛のメッサーシュミット戦闘機二機と遭遇する。戦闘機一機を撃墜したものの、フォーティス・ツーが飛行を続けられないほど被弾してしまった。ファリアに自機の燃料残量を告げると、コリンズはパラシュートでの脱出ではなく、海面への不時着を試みる。コリンズが無事着水したことを確認したファリアは、だがこれによって自機の燃料残量を知るすべがなくなったこともわかっていた。
 ハインケル爆撃機が狙うのは、英海軍の掃海艇(minesweeper)だ。ダンケルクから救出した兵士を満載している。
 もう一機のメッサーシュミットにつき狙われながら、ファリアはハインケル爆撃機の撃墜を試みる。
 
 夜、突堤にいた若い主人公たちは、次に砂浜近くに訪れた駆逐艦にまんまと乗り込むことに成功する。だが英本土目指して航行をはじめたその船は、Uボートの魚雷を受けてあっさり沈没してしまう。命からがら砂浜までたどり着いた主人公たちは、スコティッシュ部隊(ハイランダーズ)の若者たちと合流し、砂浜の端に置き去りにされているトロール漁船を調べることにする。
 
 トロール漁船は、三時間後に満ち潮になれば海に浮きそうだ。だが、英仏海峡の干満サイクルを正確に知っているのは、作中では海軍中佐だけであり、実際に満ち潮が来るのは六時間後だった。若者たちは漁船の船倉に潜り、いつ来るのかわからない満ち潮を待つ間に仲たがいをはじめる。そして、漁船を標的代わりにして、面白半分に射撃訓練を始めた独軍の銃撃を浴び続ける。
 
 (わかりやすさを重視して、出来事の順番は、作中シークエンスと一部異なっています)
 
***
 
 ここら辺で、時間の流れがおかしいことに気がつく。スピットファイアが英仏海峡に滞空できるのはたかだか一時間。老紳士のボートはずっと「昼」の海を進んでいる。ところが主人公たちは「夜」を過ごし、そしてトロール漁船の中で満潮を六時間もじっと待っている。
 ようやくわかる。つまりあたしたち観客たちがここまで観てきた物語は、尺のそれぞれ違う三本の紐(でもリボンでもいいが)をある一か所で結び合わせたような形をしていたのだ。
 
 満潮になり、主人公たちの隠れているトロール漁船は海に浮く。喜び勇んで、英本土を目指し航行しはじめた彼らは、独軍の銃撃で開いた多数の穴からの浸水によって、漁船がすぐに沈没することを知る。あわてて海上に脱出した彼らの目前には、掃海艇が見える。
 一方、上空の空中戦を見上げていたボートの老紳士たちは、スピットファイア一機が海面に不時着するのを目撃する。パイロットの意に反して、コクピットのキャノピーが故障で開かない。機体は徐々に水没を始めている。老紳士たちは救出に向かう。
 
 ここにきて、三つの物語の登場人物(あるいは戦闘機、爆撃機、トロール漁船、掃海艇など)が、同じ限られた時空に集結する。
 
 これ以上は激しくネタバレとなるので、ここら辺にしておきます。
 上に書いたような構成上、観客が一度観たはずの場面が、違う視点から何度か繰り返されることになる。ノーラン監督らしく、"Inception"(2010)や"Interstellar"(2014)のように、混乱しているかのように見える時空は、実はきちんと辻褄が合うようになっている。逆に言えば、"Inception"は「夢」のお話なのにしっかりしすぎているところがちょっと物足りなかった。この映画については、「ううん、さすが」と唸ってしまった。
 
 正直言って、観はじめた頃、あたしは"The Air"だけでいいんじゃないか、他の話はなんだかどうもピンとこないなあ、と思っていた。"The Mole"の主人公たちは、生き延びるためズルをしたり、仲間われしたり、あとはただ逃げ回っているだけ。"The Sea"は(上で細部割愛しました)、民間人が兵士を救出に向かうというのは恰好いいけど、どうにも危なっかしい。それらもすべて計算づくで、アンタイ・クライマックスの史実に、クライマックスを持ち込むため敢えて導入されたことがわかる。
 
 ただ、ミリオタ全開のあたしとしては、やっぱり"The Air"を中心に語ってしまおう。
 作中登場する戦闘機、爆撃機は、上でほぼ書き尽くしたとおり、非常に少ない(一部重要なネタバレ関連を割愛している)。メッサーシュミットは、実際には戦後スパニッシュが改造した機体で、ノーズの形状が明らかに実機と違うのは、スピットファイアと同じ、ロールスロイス・マーリン・エンジンに換装したからだとか、そういうオタクの話はどうでもいい。
 
 急降下爆撃機(ストゥーカ)は、その急降下時の悲鳴のような不吉な音から、ハーピーを連想させる。だがあたしがやたらと囚われたのは、ハインケル爆撃機とメッサーシュミット戦闘機の編隊のほうだ。上空から「死」を振りまく爆撃機はペイル・ライダー。付き従うのは「地獄」だ。
 
"And I looked, and behold a pale horse: and his name that sat on him was Death, and Hell followed with him." (Book of Revelation, chapter 6, verse 8)
 
 対するスピットファイアは「守護天使」だ。映画最後近くの部分で、燃料切れをおこしたファリアの機体は、ダンケルク上空をただ滑空していく。 
 ノーラン監督にそういう宗教的な意図があったかどうかは定かではない。だがこの場面は静謐で厳粛。そうとしか思えないようなつくりとなっている。
 
 (もっとも、ファリアを演じているのがトム・ハーディーだったと気が付いたのは、エンディング・ロールで名前を発見してからだという体たらく。作中ほとんど飛行帽とマスクで顔を覆ってるし、声は無線越しだし、一回だけ顔を出したかもしれないけど、わからんかった…。恥ずかしい。ただ誰かも指摘していたように、マスク被ってる役が多いな、最近。なにか含意があるのだろうか)
 
 そのほかの仕掛けとしては、映画の冒頭から最後近くまでずっと鳴り続けている、懐中時計(ノーラン監督本人の持ち物だそうだ)が時を刻む音。
 「シェパード・トーン」と呼ばれる、決して絶頂に達することなく永遠に音程があがり続けるような錯覚をもたらす、サイレンのような音。
 
 懐中時計の音は、兵士たちに徐々に「死」が近づいていることを意味するのか、あるいはこの物語の隠されたコンセプトである「時間軸」を意味するのか、わからない。
 「シェパード・トーン」のほうは、過去作でも用いていたそうだ。まさにクライマックスに到達しない、アンタイ・クライマックスを意味していると思うし、徐々に迫る「死」に対して、いつまでも姿の見えない「希望」を表現しているととることもできる。
 
 なんで"Dunkirk"なんて題材を選んだんだろう(脚本もノーラン監督自身)と、いぶかしく思っていた。もちろん英国人として、誇りに思う出来事だったのはあるだろう。でも、それだけかなあ。
 上に色々書いたように、なぜこれを撮りたかったのか観終わって納得しました。そして、「何とかのゼロ」程度しか作れない島国人として、大英帝国に激しく嫉妬しました。
 ゼロの何倍も、三十万倍も優れた映画だ。観るべし。(ゼロは何倍しても・・・)
 
***
 
(As Collins steps off the boat a soldier from another boat spots his RAF uniform.)
"Where the hell were you!"
(Collins just stands there. He feels a hand on his shoulder. It is Mr. Dawson. He indicates the men filling off the Moonstone)
"They know here you were."
 
(コリンズがボートを降りると、別の船から降りてきた兵士のひとりが、彼の英空軍の制服を目にとめる)
「お前、いったい何してやがった!」
(ただ立ち尽くしているコリンズの肩に誰かが手を置く。ドウソン氏だ。彼は「ムーンストーン号」で救い出されたたくさんの兵士たちのほうを示す)
「彼らはわかっているさ」
 
"Well done, lads... well done, lads..."
"All we did is survive."
"That's enough. Well done, lads. well done, lads..."
 
「よくやった、みんな、よくやったなあ」
「ただ生き残っただけだよ」
「それでいいんだ。よくやった、みんな、よくやったなあ」
 
 ―― Dunkirk (2017)
 

Dunkirk(ウンチク編)

 ノーラン監督の"Dunkirk"(2017、スピットファイア!、○)を品川IMAXで観た。
 以前、予告編を観たとき、当時の大英帝国チャーチル首相のように無理やり「美化」しない限りどうにもならない、このような撤退行動、アンタイ・クライマックスの物語を一体どう料理するのだろうと思っていた。
 
 撤退行動だけを描いたものには、島国映画「キスカ」(1965)がある。アリューシャン列島キスカ島守備隊五千人が、米加軍の上陸侵攻前に忽然と姿を消したことで「奇跡の脱出」と呼ばれる史実に戻づいている。ただし、キスカの撤退行動は、人数も少なく、まだ軍隊として十分機能していた集団によるものだ。対して"Dunkirk"で孤立した英軍は、40万人とも言われ、もはや軍隊の体をなしていない烏合の衆、目の前にあるはずの母国に戻りたくてもその手段のない、絶望にとらわれた集団でしかなかったはずだ。
 
 もちろんそんなことは百も承知なノーラン監督は、とんでもない仕掛けを持ち込んできやがった。
 
 映画では背景事情がほとんど語られない。それどころか敵独軍さえも、戦闘機・爆撃機を除けば、ほんの一瞬しか「登場」しない。そこで、ウンチクまじりの説明をさせていただく。(邪魔くさいと思う方は、この次の記事にとぶがよろしね)
 
 1940年。すでにナチスは、欧州の北と東全体をほぼ支配下におさめている。前年には露と呼応して波蘭に侵攻し占領(同国を独露で分割統治)。続いてこの年4月にはノルウェー、デンマークを占領した。
 同年5月10日、装甲部隊が先陣を務めるナチス侵攻軍は、脆弱なベネルクスに侵攻して数日以内にたちまち占領した。同じ頃、大英帝国では「戦争屋」チャーチルが首相に就任する。
 
 ナチス侵攻軍は続いて仏国内に進撃。仏が独・ベルギー(ベルジャム)と接する国境に築いた「鉄壁のマジノ線」をあっさり迂回し、アルデンヌの深い森の中を進む。
 ナチスの進入路が全くの想定外だった仏陸軍、そして同盟国英の大陸派遣軍(British Expeditionary Forces)は、機動力重視の「電撃戦」(Blitzkrieg)を旨とする独装甲部隊によって、首都パリス方面への退路を断たれ、ベルギー国境沿い、英仏海峡に面する港町ダンケルク(ダンカーク)に閉じ込められる。英派遣軍全体の四分の一にあたる40万人と、士気を喪失した仏軍兵士数万人が残された。
 
 「電撃戦」の要諦は、大規模な会戦を避け、敵陣深くに侵入して敵の組織行動全体を麻痺させることにある。その実現のための「ツール」は、もちろん(移動手段が)機械化された装甲師団をはじめとした侵攻軍全体の「自動車化」による機動力と行動範囲の拡大が中心だ(当時欧州の多くの軍隊の歩兵部隊は、文字通り「歩いて」戦場に赴いた)。同じく重要なのは、車両単位で配備された無線機による部隊内外の密接な連携と、作中にも描かれている急降下爆撃機(ストゥーカ)による敵軍行動の妨害、攪乱、麻痺だ。
 
 一般的な印象と異なり、当時の仏も「戦車大国」であった。ド・ゴール将軍(仏降伏後は亡命政府を主導、戦後大統領就任)が直接指揮した戦車部隊の反撃が、一時的にでも独軍の侵攻を頓挫させた例があるように、正しく運用されれば実力的には独軍と対等か上回っていた。
 問題は、(仏政府にはびこっていた厭戦感とそれに伴う判断・指示の遅延は置いておくと)無線配備が行きわたっていなかったため(指揮命令は手旗信号等、つまり「目視」で行うことになる)、部隊としての機動性も展開力も著しく劣っていたこと、独は空軍(ルフトバッフェ)さえも「電撃戦」に組み込んでいたのに対し、仏軍(および英派遣軍)はそうではなかったことにあった。
 
 ダンケルク包囲を完了した独軍は、なぜかそれ以上の侵攻を停止してしまう。「電撃戦の生みの親」、自らも侵攻軍の先頭に立って参戦していたグデーリアン将軍は、突然の停止命令を知って憤慨したという。「敵を叩くのではない、叩き潰すのだ!」とは言ったかもしれない。「司令部は電撃戦のABC(アーベーツェー)を理解していない!」とは言わなかったと思う。つか、これは小林源文かな。
 
 ちなみに「電撃戦」の指揮官は、臨機応変な行動を求められるため、必ず最前線にいる必要があった。エルウィン・ロンメル大佐(階級は侵攻当時)は、ワール河渡河(とか)に際し、敵味方の銃弾が飛び交う中、自ら真っ先に先頭のボートに乗り込んだという。のちのアフリカ戦線ではアフリカ軍団司令官として、最前線を専用装甲車で常時巡回していたことも有名だ。
 
 この不可解な停止の理由には諸説ある。作中の英指揮官は、「貴重な戦車を無駄に投入しなくとも、上空の航空機から樽詰めの魚を撃つように皆殺しにできるからだろう」と自虐的に説明する。ルフトバッフェを指揮するゲーリング元帥が「空軍だけで事足りる」と大言壮語したという噂に基づいたものだろうが、航空機も、その燃料も銃弾も貴重であることに違いはなく、かなり疑わしい。従来、ヒトラーが仏軍の突然の反撃にショックを受けたため命じたとか、英国から有利な講和条件を引き出すため命じたとされてきた。実際には、侵攻軍を指揮するフォン・ルントシュテット元帥と、フォン・クライスト将軍が、装甲部隊の高い損耗率を危惧して、再編成の時間を稼ぐために命じたらしい。ルントシュテットが戦争中に失敗だったと感じたことは、戦後全部ヒトラーになすりつけた。まあ、ルントシュテットに限らないだろうけど。
 
 どうやらこれが一番納得できる説明のようだ。グデ―リアン将軍ではないけど(いや、だから言ってないから)司令部は「電撃戦のABC」を理解していなかった、すべての指揮官が理解していたわけではなかったということだろう。
 
 ダンケルクからの撤退成功は、大英帝国が貴重な人的資源(30万人以上の若い兵士たち)を取り戻しただけではなく、戦争継続に必要な、国民全体の士気向上に役立ったのは間違いない。
 一方、仏国では政府にも軍にも厭戦感が満ちていた。まともに機能しなくなっていた仏軍と、まだ戦意旺盛だった英派遣軍との連携も不在となってしまう。ダンケルク撤退後、侵攻軍が進撃を再開しても、仏軍からの抵抗に遭遇することはほとんどなかった。ムッソリーニの伊が勝ち馬ナチスに乗って「便乗参戦」。仏政府はボルドーに首都を移し、「無防備都市」パリスはナチスの無血入城を許す。それから一週間もしないうちに、仏政府は休戦を申し入れ、ナチスに降伏する。ヴィシーに首都を置いた傀儡政権が発足する(1940年6月22日)。
 ナチスのベネルクス侵攻開始からわずか一か月余りで、ヨーロッパ半島の大半はナチスの支配下となった。
 
 ダンケルクの撤退に限らず、フランスの戦い全体がアンタイ・クライマックス感爆発だった。島国では、伊が先の戦争における「ヘタレ」の代名詞にされてしまっているけれど、アメリカンからしたら仏こそが「大ヘタレ」に見えるようだ。
 
 母国を離れることがついぞなかったヒトラーは、ナチスがパリスに無血入城すると、たった一日だけではあるものの、「花の都」を視察したのだそうだ。キョウトが「文化都市だから爆撃されなかった」という嘘がまことしやかに語られるのと同様(キョウトはUSの原爆投下目標の第一候補だった)、パリスも文化都市だからヒトラーが温存を望んだ、というのも全くのデタラメだ。事実、ノルマンディー上陸成功後にUSはじめの連合軍がパリスに迫ると、ヒトラーは都市の徹底的な破壊、焦土作戦を命じたではないか。東部戦線スターリングラードの降伏と同じように、部下の将軍に命令を無視され、今度は逆に無血開城しちゃったけどね。このとき、仏レジスタンスがパリス破壊阻止のため大活躍したみたいな映画(US・仏合作)がありました。手前味噌の大嘘に違いない。
 
 戦争物語には、どうしても「美化」(glorifying)がつきものだ。あのノーラン監督のことだから、それはないだろうと思っていた。そのとおりなかった。安心した。
 
***
 
Major General Blumentritt: Everyone knows you have never lost a battle.
Field Marshall von Runstedt: I'm still young, give me time.  
 
              "A Bridge Too Far"(1977)
 
ブルメントリフ少将 「閣下がいまだ負け知らずであることは、誰もが存じております」
ルントシュテット元帥 「私はまだ若い。もう少しチャンスをくれ」
 

2017年9月14日 (木)

ユービック(2)

 ここまでは、文庫の売り口上にも書いてある内容。
 ここからは、多少ネタバレも出てきます。

 地球に戻った主人公たちが遭遇する不条理は、手持ちの煙草がぼろぼろに崩れていったり、注文したコーヒー用のクリームが腐り切ったりしている、などの身近で些細なことからはじまる。やがて、手持ちのコインや紙幣が「新しすぎて」通用しなくなったり、年代は合っていてもコインに刻印された彫像が雇い主のものに変わっていったりする。さらには、周囲で目にする様々な事物がどんどん古めかしいものに「先祖返り」していく。例えば街を走る自動車の型式は、1992年の最新式から「型落ち」のものに変わり、そしてさらに年代ものに変化していく。街の建物も、ホテルのエレヴェーターも、家電製品もすべてそうだ。

 つまり、苦労してせっかく手に入れたと思ったSwitchは、ちょっと目を離しているうちにWiiUに変化してしまい、さらにWiiになり、PanasonicQ(誰も知らねえよ)、GC、N64、(バーチャルボーイは飛ばして)、SFC、FC、カラーテレビゲームまで「退行」していってしまう。

 その時間退行現象とは別に、紙マッチやトイレの壁に謎のメッセージが記されはじめる。
 そうこうしているうちに、イナーシャルの仲間たちがひとりずつ姿を消し、干からびた死体で発見される者まで出てくる。

 謎のメッセージによれば、その時間退行を食い止めるには「ユービック」と呼ばれるスプレー式の薬剤を主人公が自分自身に用いるしかない。ところが、苦労してようやく手に入れてみても、薬剤もまた時間退行から逃れることはできず、PS3、PS2・・・(もおええちゅうねん)ではなくて、瓶入りのシロップ、さらに軟膏へと変化して、効果を発揮できない代物になってしまう。

 しかも、その時間退行は次第に速度を増していき、いかなる理由によるものか定かではないものの、元の時代から50年以上前の1939年まで突き進んでいってしまう。だからせっかく手に入れたSwitchは、カラーテレビゲームに戻るだけでとどまらず、なんと任天堂骨牌時代の花札やトランプカードに変わってしまうのだ(だったら、途中のハンドヘルド・マシンとかゲームウォッチも飛ばさず書けよ)。

(もちろん1939年は、ディックが強い関心を抱いていた、というかオブセスされていた先の大戦がはじまった年。ナチスの波蘭侵攻の年だ。大島国帝国の真珠湾攻撃はずっと後なので、USはまだ参戦していない)

 不条理な時間退行、「ユービック」と呼ばれる入手困難な救済手段、謎のメッセージの主が爆死したはずの雇い主である可能性、そして仲間たちの不可解な失踪と死。本当に死んだ(半生者となった)のは一体誰なのか。事態を打開できる方法はないのか。

 はしょって言ってしまうと、この作品にもまた、この時期のディック作品がどれも持ち込んでいる、哲学的テーマが見え隠れする。登場人物の一人には、ちゃっかり「バートランド・ラッセル卿の肖像入り」トレーナーを着せたりしているし、実際、ラッセルの哲学に似せた話題も作中で用いている。

 本拠地ニューヨークに戻った主人公は、自分たちが陥った不条理な世界がどこまで広がっているのか確かめるため、仲間と一緒にランダムに選んだ都市、ボルティモアへ向かう。そこでも確かに事情は変わらない。そしてそこでも雇い主のものらしいメッセージを受け取ることになる。だが、どうして月面で事故に遭った自分たち以外の住人たちも、同じ不条理に巻き込まれているのか。どうしてその街に向かうことを、メッセージの主はあらかじめ知っていたのか。その街とそこで主人公が出会った住人たちは、本当に常に存在しているのか。主人公たちが出向いたときだけ生まれ出て、立ち去った後には何もなくなってしまうのではないか。自分が見ていないとき事物(例えば今見ている画面)はなぜそこに存在していると言えるのか、という問いもそうだし、ラッセルの有名な「世界は五分前に生まれたかもしれない」という懐疑主義的仮説も想起される。

 また、事物が年代物に「先祖返り」していく様は、作中でも触れられているように、プラトンのイデアから着想を得たものだ。本当にこの世に存在するのは物事の真の姿であるイデアであり、目に見える姿はその写し絵、似姿に過ぎない。個人的にはこれは少しこじつけで苦しいような気がするけど、きっと1939年まで遡って自動車や航空機、TV番組や音楽などの変遷について書きたかったのだろう。

 レムの論評から引用しよう。「・・・問題は、現実(うつつ)を分裂させて、それから区別できないようないくつもの似姿に解体してしまうための道具を備えた世界が、哲学の理論的思弁にのみ現れるようなジレンマを実際に作り出してしまっていることである。つまり、これは、言わばその哲学が街に出ていき、すべてのごく平凡な人間にとって ――たとえば生物圏の崩壊の脅威がわれわれにとってそうであるのと同様に――焦眉の問題となってしまうような世界なのだ。」 

 物語の最後には、一応種明かし的なことが示されている。それ自体も解釈の仕方によって様々な答えが導き出せるものであるし、首尾一貫していないプロットが綺麗にまとまるわけでもない。主人公が窮地から救われるわけでもなければ、登場人物たちの世界が崩壊から救われるわけでもない。
 レムの言うように、これが単なるヴァンパイアやゾンビの陳腐なお話であれば「批評」など一切する必要はないし、恐山のイタコの口寄せもどきを題材にしたオカルトでもない。そのような通り一遍の(文字通り?)「ずーっと死んでいる」物語ではなく、いつまでも「生きている」物語として、見かけの薄っぺらいチープさ加減や、アメリカン的な破天荒な能天気さなどの有り余る欠点もあわせて、読み継がれていってほしい作品のひとつだ、と言っても言い過ぎではないだろう。

 そして世界の破滅は、狂気の指導者のせいでもなく、天変地異によるのでもなく、何かよくわからない理由で混沌がじわじわずるずる拡大することで進行していくという、ディック特有の不気味な地滑り感も、いやになるほど味わうことができる。

ユービック(1)

 ペナルティ・ループ四周目で、これが最後。
 ようやく、この長い迂回路の開始地点であった、レムのディック論「にせ者たちに取り巻かれた幻視者」、その批評対象作品である「ユービック」(69年の作品で、島国語版は78年出版)に辿り着いた。
 
 装丁が変わるたびに新版を買い直していたはずなのに、また買ってしまった故・浅倉訳の最新版を出張の機内で昨日読み終わり、自分の記憶がめちゃくちゃなデタラメであったことを知って、またしても驚いた。
 うん十年間の脳内熟成ってのは、すさまじいものです。ぶっちゃけると、導入部分だけは作品プロットとあたしの記憶がなんとか一致していたものの、それ以降はまるで違う物語になってしまっていた。んー、なにか別の作品が色々コンタミしたのかなあ。
 
 ともかく、ディック作品の中でもかなり評判の良い、レムに限らず多くの人たちが語りつくしているこの作品について、なにか新しい気の利いたことを書くのはかなり難しいでしょう。
 老後に、またあたしの記憶が全然別のものにすり替わっていることのないように、備忘録的にコメントを書いておくことにします。 
 
 レムによれば、SF界の批評は本能的にディック作品を飼い慣らそうとした。「残りのSFに似ている部分」、旧来型SFとして理解可能な部分だけを評価して、他の部分については沈黙していたと非難ししている。閉じられた「ゲットー」(アメリカン・サイファイ世界)の中で「近親婚」を繰り返していけば、手本や模範はその内部にしかないのだから、やがて作品は平均化していく。
 
 「ユービック」についても、「幻想的グロテスク」(レム)、 「存在論的ホラーストーリー」(「タイム」誌)なんていうようなレッテルを貼られてしまうと、そういう風に読んでしまうし(ジャンル小説とはそういうもの)、ラヴェルに「SF(サイファイ)」がどこにも登場しないので、なんだかキングあたりのモダン・ホラーと似たようなものかと思ってしまう。実際、キングにも、旅客機の乗客たちが次第に「虚無」に飲み込まれていく世界に迷い込んでしまう、「ランゴリアーズ」という中編がある。もっとも、キング作品には哲学的な味わいと呼べるものはもとからないのだが。(ホラーとは呼べない小説、「スタンド・バイ・ミー」や「アトランティスのこころ」には多少あるかもしれない。この世界を一皮むけば「死」が待っている、と読めばの話)
 
 サイファイ物語としてみた場合のプロット導入部を紹介すると、次のような感じだ。
 
 1992年、テレパス(精神感応者)やプレコグ(予知能力者)などのサイキック(超能力者)が一般化し、それらの能力が企業化、商品化された時代。テレパス・プレコグたちの手による企業機密漏洩を防ぎ、個人のプライヴァシーを守ることを目的に、イナーシャル(inertials、不活性者)たちの能力もまた企業化、商品化されている。イナーシャルの能力は、テレパスやプレコグが能力を発揮する「力場」を無効化・中立化する。いうなれば「アンタイ・サイキック」とか「サイキック・スポイル」だ。DnDならディスペル・マジックだ。
 
 不治の病の治療こそ実現していないものの、この時代には、死に瀕した者を「半生者」(half-lifers)として冷凍保存する施設、モラトリウム(moratorium)が普及している。半生者たちは各自の精神エナジーが続く限り、一定の制限下で外部から接触する遺族・・・、んー半遺族と会話することも可能だ。
 
 主人公は、イナーシャルの能力検査技師として優秀な腕前を持っている。にもかかわらず、浪費癖がたたって経済的に破綻した一文無しだ。この時代では有料となっている自分の部屋の扉の開閉さえままならない(もっとも、それに必要な少額コイン一枚の持ち合わせさえないという点は、後々プロットで意味を持つ仕掛けだ)。
 
 この時代には月面への植民が進んでいる。そこに拠点を構える企業のひとつがサイキックたちの標的になっていると知らされた主人公の雇い主、イナーシャル派遣企業の創業者にして経営者は、選りすぐりのイナーシャル11名と主人公を引き連れて月面へと向かう。
 ところが、一行は何者かの罠にはまり、待ち伏せを受ける。雇い主が爆死するのを目の前で目撃した主人公は、その遺体を回収し、イナーシャルたちとともにほうほうの体で地球に逃げ帰る。
 雇い主をモラトリウムに収容した一行は、だが、身辺に奇妙な出来事が頻発することに気づく・・・。
 
 前半部は、21世紀の今から見れば、ネットワーク・セキュリティの世界のメタファーになるでしょう。ハッカー対ハッカーの戦い。例えばウィリアム・ギブソンが描いた「ニューロマンサー」(1984)、または「攻殻機動隊」(原作1989)のモチーフにも通じる。
 いみじくも、現実の1992年は、国際組織であるインターネット・ソサエティが発足した年。それ以降、インターネットは世界中の多くの地域で爆発的に普及していくのでした。
 
 そのままサイキック対サイキック・スポイルの話としてみても、モチーフが共通する昨今の島国ラノベやアニメは多い。「サイキックとしては落ちこぼれた者が、実は最強だった」みたいなそのものずばりの物語もあって、ディック世界とどこかしら通底している。
 事実、この作品にも、「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」、「銀河の壺直し」、そして「去年を待ちながら」同様、ディック世界おなじみの「落ちこぼれのダメ男」主人公が、野心に溢れた指導者(企業家)、さらには主人公の言うことをきかない女性(妻)と三点セットで登場する。ユング的「元型」にかこつけて語れば、いつまでも続けられそうだけど、今プロットを説明しているのだから、脱線はやめましょう。
 
 なにやらサイキック対イナーシャルの、スーパーヒーローもの的な大活劇でもあるのかと思いきや、ディック作品でそういうのがあるわけない。自分で組み立てたプロットにいきなり足払い、あっさり梯子外し、せっかく作った砂場のお城をぶち壊す、というのもディックの常套手段のひとつだ。
 だいいち、これ以降サイキックの話はもうほとんど関係なくなってしまう。
 
 とはいえ、ここまでの部分は、たしかに面白いけど模倣可能な領域といえる。現にサイバー世界でもサイキック世界でも、類似のアイデアを用いた物語は色々あるのだから。訳者あとがきで浅倉氏が述べているように、ヴォークトの「スラン」(1940年)を下敷きにしているのかもしれないし。
 問題はこの後。長くなるので記事数稼ぎで次回。

2017年9月12日 (火)

「去年を待ちながら」を待ちながら

 ペナルティー・ループ三作目。たとえ意見が同じだったからといって、やはり態度の悪い山形訳で読むのは気が引ける。
 そのため、(生家のどこかに間違いなくあるはずの)「去年を待ちながら」も、中古の創元版を買ってしまった。
 
 従って「待ちながら」なのは、間もなく出るという山形訳のことではない。単に宅配を待っているという意味だった。それが出張に出発する前々日にようやく到着した。
 以下、ぼんやりではありますがネタバレあります。
 
 ディック本人もお気に入りというだけあって、珍しくプロットの破綻もない。のっけから物語はスリリングでシニスターな雰囲気を醸し出している。ムッソリーニ然とした国連事務総長が率いる地球は、ヒトそっくりの姿の、そしてナチスそっくりの体制を有する異星生命体にたぶらかされて同盟関係を結んでしまい、別の(アリさん似の)異星生命体との星間戦争に巻き込まれてしまう。そしてそれは、ムッソリーニの伊がヒトラーの独と手を組んで戦った、あのヨーロッパ全域を火の海にした戦いのように、しだいに負け戦の様相を呈してくる。もっとも、ディックの念頭には、作品執筆当時にはすでに泥沼化がはじまっていたヴェトナム戦争があったようだ。
 
 ああ、そういえば前世紀の絶東の島国も、ばかだからナチスと同盟を結んだのだった。そして正真正銘のばかだったことを証明するかのように、米の挑発にまんまとのって、なんとか一刀流免許皆伝、お家芸の先制攻撃を行ってしまう。真珠湾の目も眩むような大戦果は、この島国がめちゃくちゃ戦に強いことは示したものの、大局を見る目がいまの北のデブにさえ劣ることをも如実に示してしまった。
 
 戦争初期の頭脳明晰だった頃のヒトラーの大戦略は、米国を傍観者のままにしておくことを主眼としていた。フォーティチュード、不屈の精神だけを生き残りの拠り所にしていた、あのチャーチル率いる大英帝国でさえ、これはやべえかもしらんと震え上がらせたウルフパック、大西洋を我が海とした無敵のUボート艦隊に、ヒトラーは中立国米籍の船舶には決して手を出すなと命じたのだ。
 
 それを、どこぞのDQNか駆け出しのチンピラのように、絶東の島国がキレたからいわしちまいましたとか、ヒトラーが別人のようにおかしくなった原因は、もちろん独露戦で苦戦したこともあるけど、このチンピラ紛いの同盟国のせいもあったに違いない。
 
 そういえば、ノーラン監督の ”Dunkirk”(2017、観ていない、⭕)見ないと。というあたしは今成田空港ラウンジなので、しばらくの間はくだらない機内映画しか観ることはできない。
 
 ディック作品には珍しく、この作品の物語はわりとすんなり説明できる。ネタバレになるので詳細はやめておくものの、ここで描かれているのは、まずひとつには、ありうべき「指導者」像であり、望ましい「政治家」の姿だ。ディック自身が尊敬していたというムッソリーニをモデルとしたイタリアンの国連事務総長は、地球を破滅の危機から救うため、文字通り「八面六臂」の活躍をする。ヒトラーをモデルとした、異星生命体の指導者との会談で窮地にたたされたときなどは、「死んだふり」どころではなく、本当に死んで見せる。
 
 作中でも触れられているように、ヒトラーは、自分が存在しない帝国にはなんの意味も見いだしておらず、ノルマンディーに米英軍の上陸を許し、東部戦線も崩壊したあとでは、母国の行く末がどうなろうが委細構わず、むしろ自らと一緒に滅び行くべきであるとさえ思っていた。戦況の悪化に伴って、ナチスがホロコーストの「稼働率」を向上させたのも、よく知られたことだろう。
 
 巻き込まれた星間戦争から地球を救うまでは、死からさえ何度も復活し、任務を全うしようとする事務総長の姿は、ヒトラーへのアンチテーゼ(アンタイセシス)であるのと同時に、「不滅の神」になることを目指した大戦当時のUS大統領FDRへのそれでもある。また、人工臓器移植を繰り返して「不老不死」を手に入れようとしている作中人物の利己的な欲望ともまるで異なる。
 
 もちろん、これだけでこの作品の味わいが決まるわけではない。面白いアイデアを盛り込んだ、でもありがちな政治サイファイの変奏曲というところだ。
 作品ではもうひとつの物語、いつものディックの世界お馴染みの、地球の平和よりも重みがあると主人公が思い込んでいる、自身の身の安全、心の平穏、生きることそれ自体の意味(アイデンティティ)探しがずっと大きな比重で語られる。
 主人公は腕のよい人工臓器移植医師として大富豪に雇われ、やがて事務総長の医師となることを求められる。同じ大富豪の企業で働く妻との関係は(案の定)すでに破綻寸前だ。別居の口実ともなるため、主人公は異動を受け入れる。
 
 一方で妻は、気晴らしのため、服用を続けなければ死に到る禁制の薬物に手を出してしまい、いつの間にか星間戦争の諜報戦に巻き込まれる。
 薬物は、服用者にタイム・スリップをもたらすものだった。妻に絶縁を申し渡したはずの主人公までも、意図せず中毒者となってしまう。
 通常、中毒者は過去へのタイム・スリップを経験するのに対し、主人公が向かうのは未来だった。星間戦争の行く末を知り、事務総長が死と復活を繰り返すからくりと、その本当の狙いを知った主人公は、地球を救うために事務総長が仕組んだ計画の片棒を担ぐ。
 
 だが、いつまでも主人公の頭から離れないのは、戻ることのできなくなった「去年」だ。中毒者となり、かつての美貌が見る影もなく失われ、精神に異常をきたすことになる妻を見捨てた、自分の過去だ。やがて、自分が戦争それ自体の意味を受け入れることからさえ逃避していたことに気づく。戦争の趨勢を変えるはずのせっかくの企てを、自分のへまで台無しにしてしまったと思い込み、自暴自棄になった主人公を破滅から救うのは、ただ自分の生存だけを目的に戦い、生きている原初的な異星生命体と、気のよい流しのタクシーの人工知性だった。
 
 主人公を救うのは、またしても異星生命体とロボットAIだ。
 むしろあたしなんざは、これらが登場するのが楽しみで読んでいるようなものだ。
 そして、あらためてこう書いてみて、この記事前半のテーマはともかく、後半の破綻した結婚生活の話なんて、ガキの時分に読んだってピントと来るはずないよなあ、と思うのだった。
 一度ならず悲惨な「人間」関係のしがらみに巻き込まれ、自暴自棄になったことがなければ、わかったふりするしかないはずだ。
 
 ところが、記事前半部分だって、能天気なガキには本当はわからない。ヒトラーのように、「自分がいない世界」にいかほどの意味があるだろうか、という思いにとらわれ続けるガキはろくなものではない。運がよければ哲学者になってしまうそうだ。運が悪ければ言わずもがな。巨大な権力を手にしてしまったら、世紀の犯罪人となってしまう。ディックが「永遠の神」を目指したと喝破したFDRもその点は同じだろう。
 ヒトラーが、戦争経済はともかく、どれだけ哲学への造詣があったか知らないものの、周囲の者たちはハイデガーあたりに後押しされ、「どうせ死ぬなら派手にいきましょうや」というニヒリズムに陥っていたのは間違いない。よくナチスの精神性に影響があったと誤解されるニーチェは関係ない。不幸なことに彼の妹があほだっただけだ。
 ニヒリズムとは、答えがないことを悟ることではない。答えを決めつけることだから。
 
 対して、作中の国連事務総長の行動はまさに超人的だ。そしてそれは、彼と同じ手段を与えられたとしても、誰にも真似できないだろうという意味で超人的だ。文字通り「身を賭して」地球を守る任務を全うする意思は揺るぎない。英雄が、悲劇的最後を宿命付けられている者を指すのなら、彼は何度も死んでいるし、任務が続く間は何度でも復活する、英雄そのものに違いないのだろう。そして勇者でもある。勇気には多くの形があり、それぞれに意味は異なるものの、武勇(valor)にはたったひとつの意味しかない。最後まで戦いに踏みとどまること。
 
 物語の最後に、重病の妻を見捨てるべきかどうか問われ、タクシーのロボットAIが主人公に語る言葉こそ、ニーチェ的だ。
 
「人生はさまざまな様相の現実から成っていて、それを変えることはできないからです。妻を捨てるということは、こうした現実に耐えられないと言っているのと同じなんです。自分だけもっと楽な特別の条件がなければ生きて行けないって言うのと等しいことなんです」  

2017年9月 9日 (土)

銀河の壺直し(2)

 自分がただの変節漢になってしまったようで恐縮する(ふりをする)。
 
 色々なところで見聞きし(読んで)、態度の悪さ故に敬遠していた山形浩生の文章が、自分がディックをどうしてどのように読んでいたかの説明を、ほとんど言い当ててしまっていることを発見してしまった。
 (訳者を避けて)当然読んでもいない、買ってもいない本人訳の「死の迷宮」の「あとがき」のようだ(作品自体は過去旧訳で読んでいる)。例によって態度は超悪い(笑)。
 
「ディックが一時流行ったのは、エントロピーがどうしたとか別世界を見事に描くとかいった理由からではない。シミュラクラ感覚だの、この世界の虚構性などという話とも全く関係がない。
 
(この後、そう思っている人たちへの誹謗中傷が続くので中略(笑))
 
 ではなぜディックは流行ったのか。それはディックのキャラクター扱いのためである。
 ディックは陰気で無能な卑しい人間を描くにかけては素晴らしい才能を持っている。」
 
 このあと、Googleブックスは「読ませないページ」に入るので引用はここまでにして、それでも、もう言わんとしていることは言いつくしていると思う。そして、おそらくこの後何が書いてあるかも含めて、読んでもいないのに同意するしかない。
 
 以下は、この文章を発見する前、「銀河の壺直し」を読んだ後に書いていた、とりとめのない感想だ。
 かつてガキの頃、ディックの作品を片っ端から読んでいた理由は、取り扱っているテーマがエントロピーの増大だからではなく、ユビキティでも、シミュレーションでもなく、主人公はじめとした登場人物たちの、ロボットや異星生命体も含めた連中の面白さだった。
 
***
 
 ディックの作家としてのスキルについては「下手くそ」という評が多い。プロットが破たんしているのはもちろん(そこがディック的ともいえるけど)、作中の小さなエピソードにはとても面白いものがあるとしても、なぜか途中であっさり打ち切ってしまう。主人公の語りが別の登場人物に遮られてうやむやになってしまうケースも非常に多い。たとえば、レムの永遠に続くかのようなハイテンションのバカ騒ぎの陶酔感もない。ジャンルは異なるが、スティーヴン・キングのように、アメリカの片田舎の世間話だけで延々と何十ページも読ませるような腕力もない。
 
 キングといえば、現代の、あるいは回顧ものでよく舞台に選ばれる50年代(「スタンド・バイ・ミー」など)、60年代(「アトランティスのこころ」)あたりの、アメリカンの生活そのものを描くことに関しては追随を許さないという評がある。それはところどころに作品舞台当時の事物や「情報」が巧妙に配されているからでもある。元々セールスマンであったディックも、「ユービック」をあげるまでもなく、珍しい新製品や、セールスやマーケティングの売り口上を頻繁に作中に持ち込もうとする。それらがどう贔屓目にみてもとんちんかんだし嘘くさい。そういうC級コピーライター的な、昔の(島国で言えば特に地方の)深夜TVのCM的な「胡散臭い」効果を狙ってるのだとしても、大して成功しているとはいえない。
 
 「銀河の壺直し」には、各宗教宗派別の「ロボット告解室」(ロボット懺悔室)が登場する。後に述べるように(つうか、前回述べたな)、この作品が「聖書」に、そしてその「解体」にまつわるものであるのだとしたら、遊びだけで挿入したエピソードではないと考えるべきなのだろう。ところがそのせっかくのアイデアは、まるで出来あいのエスニック・ジョーク扱いで、あまりにあっさり終わってしまう。ジャンルもメディアも違うが、コーエン兄弟なら、似たようなアイデアを映画"Hail, Caesar!"(2016、忘れた、○)で十分近くもたせたところだ。
 
 主人公は、まだ話の途中なのに誰かに強引に話題を打ち切られる、またはすりかえられる。気の利いた良い思いつきだと思って、急いで言ってみたものの、誰の注意も引いていない。そのとき言わなければならなかった言葉を言い出せず、その後いつまでも脳内で反芻し続ける。
 
 書き手として「下手くそ」というよりも、ディックが人としてそういう人だったせいかもしれない。ディックの主人公たちは基本的に男性(または関係が破綻寸前の男女ペア)で、大抵の場合は人生の落伍者、生活破綻者、薬物などの中毒者、とりかえしのつかない失敗をやらかした出世競争の負け組、生きる目的を見失った隠遁者などだ。その発言に誰も耳を貸そうとしないのも不思議ではない。名前すらよく取り違えられる者までいる。それ以上に何が悲しいというと、本人自身が、過去の失敗、身の不幸、破綻した人間関係などについて、いつまでも延々と引きずり続けていることだ。
 
(追加)もっとも、失敗、不幸、関係の破綻などの事態に遭遇したとき、誰でも数年は、長ければ十年は、それを引きずるものだ。逆にそのくらい引きずらなければ、それは重大な失敗でも、不幸でも、破綻でもなかったか、または、本人が能天気なバカかどちらかだろう。(追加終わり)
 
 一方、「銀河の壺直し」に登場するロボットや異星生命体たちが好例であるように、ヒト以外の作中存在は概して雄弁で魅力的だ。特にこの作品の主要登場人物?であるロボットは、明朗快活、饒舌多弁で、発想は前向きだし、文化芸術への造詣は深いし(イエーツの詩を諳んずる・・・、んー、DBに保有している)、融通も機転も利くし、物おじしないし、使命感に溢れていて迷いがない。旧来の「サイファイ」で主人公となるべき資質を十分に有している。
 
 多数登場する異星知性体たちも、ディック作品おなじみのクモさん、ムカデさんはじめ皆フレンドリーで、(ヒトではないけど)人懐っこく、中にはヒト(地球)の文化をこよなく愛している者もいる。クモさんは「ファウスト」について一家言あり、弁鰓類に似た存在(ハマグリさん!)と一緒に、主人公とその解釈について論を交えるほどだ。
 
 主人公たちを輸送する飛行艇のドライヴァーは、でぶっちょで無口な生命体だ。光と闇の間の熾烈な戦いのただなか、抜群の反射神経と巧みな操縦で、絶体絶命の危機から一行を救う。そして、安全な場所に無事辿り着いたとき、主人公に特別料金の支払いを要求する。その理由は乗客たちの命を間一髪救ったからではなく、税金逃れ目的で、徴税吏や警官の監視を逃れるため用意していた「特別逃走経路」を飛んだからだ。あたしはあきれて思わず笑ってしまう。そしてこの手の笑いが、拍子抜けの、あるいは突拍子もない笑いが、ディック的な笑いの王道パターンだ。ファンクだ。
 
 ともあれ、作中のロボットや異星生命体が魅力的であるのは、主人公たち(ヒト)の情けなさと裏腹の関係にあることは間違いない。ロボットや異星生命体は、ディックにとっての妖精たちだ。ヒト(いっぱしのおとな!)として慮らなければならない「人間関係」という名のしがらみとは無縁の(だって人間じゃないからね!)、もっと自由で闊達な関係性を抱くことができる相手だ。
 主人公が愛する音楽や、詩や、あるいは哲学などについて語ろうとしても、他のヒトたちは最初から教養がないか、たとえ教養があっても目先のビジネスの方がずっと大事だと断じているかして耳を貸さず、または話を一方的に打ち切ってしまう。レムがディックを指して言うように、ディックの主人公もまた、「俗物」に取り巻かれている「幻視者」なのだ。
 対してロボットや異星生命体のクモさんやハマグリさんたちは、そうした教養あふれる話題にいつまでも付き合ってくれる。オタクにとって天国ではないか?(オタクと幻視者は違うか) 
 
 また、彼らは(ステレオタイプに描かれている)ヒトの連中よりも、ずっと陽気でジョーク好きだ。とはいえやはり、「異文化交流」?は難しい。ハマグリさんがとっておきの小咄を披露しようとすると、主人公が話に登場する聞き慣れない単語の意味をいちいち問いただす。小咄のテンポもリズムもあったものではなく、笑いを潰されたハマグリさんは憤慨して、貝のように殻の中に閉じこもってしまう(つか、もとから二枚貝だし)。
 
(以下、余談・・・、ではなくなってしまった)
 
 1965年に書かれた「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に登場する国連(UN)は、21世紀の今現在のものと変わらないダメ組織として描かれている。作中の事務総長はインディア出身で、当時の現実のUN事務総長ウ・タントがビルマ(バーマ、今のミャンマー)出身だったことと無関係ではあるまい。登場人物の白人が、そのことを苦々しく感じている様子が描かれている。主人公が勤務する企業の社長は、事務総長が「色黒でこすっからい未進化の政治家」であり、自分の事業がいつもその男に足を引っ張られていると憤慨する。「アフロ・アジア的かけひき。泥沼。国連を動かしているのも、その職員も、みんな外人どもだ」。時代が時代なので、「国連軍」(UN forces)の役割と権限がかなり誇張されて描かれている。
 これが、1966年の「去年を待ちながら」に描かれるUNになると、ムソリーニ然とした男を事務総長としていただき、ナチスをモデルにした異星生命体との同盟関係にひきづられ、星間戦争に巻き込まれた地球の戦いを主導している。
 
 以前、レムの惑星連合会議を描いた短篇「第8回の旅」と筒井先生の「マグロマル」(いずれも1966年作品)が描くUNは、1960年の「植民地独立付与宣言」(US、英仏などは採択を棄権)にはじまる時代を念頭においたものだと書いた。波蘭および島国は、戦勝国と敗戦国という違いはあれど、戦後冷戦構造が確立する際、ユーラシア大陸の両側で、それぞれ米露スーパーパワーの最前線防衛の役割を担うことになる(押し付けられることになる)ところが共通している。島国も波蘭も、実質米露の占領下にあったと言ってもあながち誤りではない。二人の作家がUNの存在意義を鼻から否定して、シニカルに、あるいはニヒルに見つめているのも頷ける。
 
 それに対してアメリカンであるディックは、必ずしもUNをはなから否定していたわけではないのかもしれない。エントロピー増大にオブセスされていたディックは正しい意味で「哲学者」であり、故にどうみても終末論者であったのに違いないが、同時に地球平和の実現にかすかな希望を見出していたのではないかと思われる。その期待が見事に裏切られた失望が、上述のようなカリカチュアライズされたUNの姿を生んだのだろう。
 
 一方で、1969年の「銀河の壺直し」にはUNは登場せず、US政府が全体主義政治を完成させている。「高い城の男」を挙げるまでもなく、全体主義政治に関するディックの関心というかオブセッションは強い。
 
 ところがこの作品では、主人公を含む寄せ集めの落ちこぼれ集団である異星生命体の一団が、「正しい」または「理想的な」民主制(democracy)を実現してしまうことになっている。
 この落差はなんなのだろうか。(UNやUSという)ヒトの集団、ヒトの組織ではそれがまったく破綻しているのに、ヒトと異星生命体が混在した集団なら成り立つのか。   
 もちろん、「銀河の壺直し」が描く「民主制」(あえて民主主義とは言わない、理由は下に書く)は、その言葉(明治翻訳語)が生み出すイメージとはかけ離れたものだ。ギリシャ(グリース)の原初的な民主制とも異なる。だが、UNだの議会政治だのが単なるまがいものであり、作中の民主制こそが本物であることは間違いない。
 
(西部邁氏曰く、"democracy"を「民主主義」とするのは誤訳であって「民衆政治」が相応しい。なぜなら「主」とは崇高で超越的な権力のことだから。ヒトであるところの民衆が「崇高、絶対、超越」的な存在であるはずがない。これ以上の説明はかなり核心的なネタバレとなるので、「銀河の壺直し」をお読みいただくしかない)
 
 ディックが理想としていた「政治」の姿は、こんなところに顔を出していたのかもしれない。
 それも「もしかしたら落ちこぼれたちしか実現できない」、「落ちこぼれたちであるが故に実現できる」と仄めかすところにも、ニヒリズムを超えた、ディックの視点の暖かさというか、甘さというか、ヒト(を含む知性体)に対する祈るような、すがるような、デスパレイトな希望が示されているのかもしれない。
 
 

2017年9月 8日 (金)

銀河の壺直し(1)

 予告しておいてなんですけど、この下の部分て面白くないですね。評論としては書かれていることはその通りだと思うし、ロジックにケチはつけようがない。ただ、あまりにクリアカットすぎないか。もしこのとおりなら模倣者が山ほど生まれてもおかしくないか、と思いはじめた。
 
 実を言うと、「銀河の壺直し」を読んだ後、その作品の細部に関して思いついたことを先に書いていた(次回の記事にします)。そちらは書いているうちに面白くなってきて、いつまでも止まらなくなってしまった。途中で、作品を読んだこともないここの読者(検索ロボットではない読者もきっといるに違いない)に、ネタもプロットもなにも示さずに、ひとりで面白がっているのは失礼だろうと思い直し、あわてて下の部分を書いた。ところがこっちは、書いている間も、読み直してみても、端的に面白くない。
 
 んまあ、言ってしまえばポスト・モダン的解釈だから、賞味期限がきれたのかなあ。
 
 気になって、ちょっとネットを色々探してみたら、ここのところディックの新訳を立て続けに出していて、個人的には色々とエラそうな感じに思えるので敬遠していた、ピケティ芸者の山形(浩生)が、なにやらあたしと同じようなことを書いているのを発見してしまった。巽氏と訴訟騒ぎまで起こしたおっさんと、似たようなことを考えてしまったとは。
 この記事さくっと「ボツ」というのが潔いんだろうけど、せっかく書いたので載せておきましょう。
 
***
 
 巽孝之氏は、サンリオ文庫「銀河の壺直し」巻末に収録されたディック評、「ある解体者の残像 - ディック批評のために」の中で、この批評は(ディック作品群全体の批評を目指したものではなく)あくまでこの小説を評するために必要なものであったと断っている。
 
 しかしながら、前半は主として欧米の批評家たちによる(1983年までの)浩瀚なディック論(当然、レムのものも含まれる)を分類、吟味しつつ、その中でも主流となっている作品構造中心の考察に連綿と引き継がれている伝統、「メタSF作家」という定説を取り上げている。それでひとつのディック論になっているわけだから、作品群全体の評であると言ってもよいのだろう。
 
 逆に言えば、ディックのある一つの作品の解題を試みるには、作品世界の全体を見なければならないということになる。だが、すべてを俯瞰して見てもひとつひとつはとらえどころがないし、ひとつを取り上げてみつめても、すべてを見とおすことはできそうにない。レムが自身のディック論(「にせ者たちに取り巻かれた幻視者」)で言うように、ディック作品をその作品世界の中で読み解こうとしても、テキストが首尾一貫していないため徒労に終わってしまう。そのため、テキスト全体の意味はそれらの構成原理の領域に求めざるを得ないが、「この構成原理こそまさに焦点の欠如を生み出しているのである」。
 
 巽氏は、シミュレーション(simulation)とユビキティ(ubiquity)、「擬態」と「遍在」がディックの主要なテーマだと指摘する。それらは、「それぞれ科学技術文明の自走性および相対性原理に基づく超時空区間認識しか意味しない」、SF内部に抑圧されていた「差異」であった。ところが「ディックというフィルターを得ることでそれらは生き生きと解放されていった」。
 
(ディック作品に馴染んでいる人なら、これは特に目新しいことでもないはずだ。それぞれのテーマについて、いくつかの作品を列挙できる人もいるだろう。例えば(巽氏もあげているように)、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は前者だし、後者で言えば「ユービック」は(あからさまという意味ではなく、別に下で出てくるので)置いておいて「火星のタイムスリップ」とか。)
 
 さらにこの二つのテーマの根底にあるのが、レムも指摘していたディックの「エントロピー増大」に対する強迫観念だという。
 
(これもまた特に驚くべきことでもないし、ディックに特有なものでもない。ピンチョンはじめとしたポスト・モダンの作家の作品に、多かれ少なかれ通底するものだという。)
 
 「遍在」がエントロピーの増大を意味することは説明不要だろう。「偏在」(字が違うことに注意)から「均一」へ、複雑から単純へ、秩序から混沌へ。「均一」とは「遍在」のことだ。
 「擬態」はどうしてエントロピーの増大を意味するのだろう。ディック自身の言葉によれば、「生あるものが物体化に向かい、逆に機械的なものが活性化へと向かう趨勢」なのだそうだ。
 
 そして読めばすぐわかるとおり、「パーマーエルドリッチの三つの聖痕」は、「遍在」する絶対悪の「シミュラクラ」(まがいもの、シミュレーション(「擬態」)と語源は一緒)を描いた作品であり、上述の二つのテーマを統合したものだ。
 「ユービック」をご存じの方なら、あれもまた(あからさまな意味で)「遍在」する「まがいもの」の世界の物語であるから、レムが「三つの聖痕」を「ユービック」に連なるディックの「主流」であると論じたのも納得できる。
 
 では、同じようにレムが「主流」に含めても良いと挙げていた「銀河の壺直し」はどうだろうか。ネタバレは避けるとして、ストーリーを述べればこうなる。
 
「地球で陶器修理屋を営む主人公は、グリムングと呼ばれる異星の超生物に雇われ、他の多くの異星から採用された知的生命体の専門家たちとともに、ある惑星の海底に沈んだ異星宗教の大聖堂(カシードラル)を引き上げる事業に力を貸す」
 そのまま読めば、プロジェクトにかき集められた異才のメンバーが、力を合わせて大聖堂を海底から引き揚げる、一大アドヴェンチャーになるのかなと予想してしまう。それが必ずしもまったくの見当違いではないとはいえ、物語はそうした陳腐なアドヴェンチャーなどと似ても似つかない、異様な世界に突入していく。
 
 巽氏によれば、この作品は、西欧文学の根源的なテキストである「聖書」を解体するものであるという。描かれているのは、宗教のシミュラクラ、神のシミュラクラであるから、「ユービック」や「三つの聖痕」のように、「擬態」と「遍在」が統合された形式に沿う作品群のひとつであることは間違いないだろう。
 最後まで謎が解明されることはないものの、その異星世界の宗教は光と闇の争いを伴うものであったようだ。それは地球世界(クリスチャニティ世界)のジーザスとファウストの関係に翻訳される。主人公である壺直し(pot-healer)は、引き上げられる大聖堂の遺跡に残された陶器を修復するのが役割であると同時に、巽氏によれば(ジーザスを連想させるような意味で)癒し手(healer)でもあり、さらには、この物語自体の修復(再構築)をメタ物語の次元で担う者でもあった。
 
(ここまで至っても、「まあそうかな」と思うくらいで、どうしてディックがディック的であるかの説明には実はなっていない。最後に下に示す論点で、ようやくディックらしさの、かろうじて片鱗くらいが示されるのだろう。この記述の部分の巽氏のはしゃぎぶりは、さすがにちょっと引いてしまうので、引用が憚られる)
 
 巽氏がこの評論の核に置くのは、ディックが「形式」の解体者であるという指摘だ。ディックの示す「エントロピーの増大」は、物語内における単なるメタファーにとどまるどころか、言語的、文体的に物語自体を、物語の言語自体を解体していく。ディックの造語であるキプル(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)とか、ガブル(「火星のタイムスリップ」)といった、意味のよくわからない、だが知らないうちに増殖を繰り返していく言葉が、テキスト全体を覆いつくすかのように広がり始めるとき、物語世界には無秩序、否定、ノン・センスが充満していく。
 
***
 
 ここまで書くのにえらく苦労した(途中二回ほどくだらない記事でお茶を濁した)のは、特段難解なことを言おうとしているからではないことはおわかりだろう。「擬態」と「遍在」という大きな二つのテーマがある。それらに共通する根底には「エントロピーの増大」に対する強迫観念があって、その強迫観念は言語・文体的なレヴェルにまで至っており、内側から物語世界を解体していく。
 
 すでに述べたように、この解釈を読んだとき、「それはそうなんだろうけど、あまりにクリアカットすぎないか。果たしてそれだけなんだろうか?」という違和感にさいなまれた。
 それならば、なぜディックの模倣者が多数生まれなかったのか。巽氏が「形式の解体者」とよぶディックの「形式」が、このように確立されたのであれば、以来類似品が量産されてもおかしくなかったのではないだろうか。ディックのまがいものがそこら中に遍在しなかったのはなぜか。確かに「ディックの再来」などと銘打たれた作家も、「ディック世界の再現」などと呼ばれた作品もあるにはあった。残念ながら、まがいものの類でさえ、どれひとつ残っていないようだ。
 
 レムは、「完璧な完成品」ではなく、新しい何かの「魅力的な前触れ」であったはずのディック作品を、SF批評界が本能的に飼い慣らそうとして、その意味を限定しようとしたと非難する。批評家たちは、他のSFと似ている部分だけを強調し、そうでない部分については沈黙を守った。文学作品の異常で「民主的な」自然淘汰により、玉も石もみな一緒くたにしてしまった。生きている<サイファイ>も、ずーっと死んでいる「サイファイ」も、「平等」に取り扱ってしまった。
 巽氏がポスト・モダンの時代に、ポスト・モダンの「手法」で読み解いたディック評も、結局のところは、ポスト・モダンの金型に「当てはまる」ところだけ、都合よく取り出してみせたのかもしれない。
 
 というのも、少なくともあたし個人にしてみたら、「ギップル」だとか「ガビッシュ」だとか、そういうことが読みたくて、ディック作品を読んでいたはずがなかったからだ。「そのさまは、実にガブル・ガブル・ガビッシュそのものに拍手を送りたくなるほど果敢であり、妖美であり、だからこそ感動的なのだ」などと叫ばれたとしても、あたしはきっと顔色一つ変えずに真顔でただじっとしているだけだろう。
 そして、クリスチャニティに無理解なままで「銀河の壺直し」を読んで、面白がっていけないはずはないからだ。 

2017年9月 7日 (木)

雨の日にはポイント2倍。

 朝から雨模様だったので、帰りに東京駅近くの大きな書店に立ち寄ることにしていた。レム・コレクション全六冊のうち、未購入の三冊を買うつもりだった。
 
 「雨の日はなんとポイント二倍となります!」
 
 別段、そういうものに熱くなるタイプではない。世の中にはポイント付与やらクーポンやらの特典にはまりやすい、後でよく考えたら必要ないものまで購入してしまい、結果的に損してる人種がいる。以前よくTVに出ていた、今はすっかり干されている(らしい、TV観ていないから知らないけど)、メガネかけたアホな自称経済学者がそういう類だ。コンビニなどでポイント集めに精出している話を延々としていたので、アホであるに違いない。
 あちらで、そういう連中のことを「キューポン・プローンな客」(coupon-prone customers)と呼ぶと教わって以来、その罠にははまらないように注意していた。
 
 とはいえ、再販価格維持制度に守られている現物の書籍なんて、どこで買ったって一緒。Amazonに注文したって一緒ではあるのだけど、なんとなくこのシリーズだけは店頭で買おうと思っていた。理由は特にない。祭りに参加している気分が続いているのかもしれない。
 
 ならば、雨の日には余分にポイントくれるという書店でよいではないか。本日は7日であったけど、後で知ったことには「8」のつく日は元々ポイント倍なんだそうだ。 では8日に雨が降ったら2*2で4倍、数えで役満行くのか行かないのか。そんなどうでもいい、超くだらないことで頭がいっぱいになるとしたら、キューポン・プローンである証拠なのだろう。
 
 残念ながらその書店は「レム・コレクション」のフェアには参加していなかった。そのことはちょうど7日前、先週訪れて一冊だけ買ったときに確認している。そのときも(未購入は四冊だった)二冊くらいは買っておこうと思ったのだが、売り場には各巻一冊ずつしか並べていなかった。他の巻はちょっと汚れてたりしたせいもあったのか、比較的綺麗なままだった一冊だけ買った。
 
 今日はもう面倒なので、残り三冊大人買いしてやろうと、財布を握りしめ(主婦か)、勇んで売り場のフロアまで駆け上がった。
 
 一冊を残して全部買われていた。(島国語特有の「被害の受け身」、「迷惑の受け身」)
 
 これには不意をつかれた。まさか自分以外に、そんな買い物をする酔狂な人がいる可能性なんて、正直一顧だにしていなかった。
 地団駄を踏んでももう遅い。「雨の日はなんとポイント二倍となります!」と言われても、ゼロの倍はゼロだ。仮に8日の雨の日だったとしても、ゼロの4倍もゼロだ。北のミサイルも当たらなければどうということはない。ではなく、買わなければ何にもならない。
 つうか、北のミサイル下から見るか(略は、どうせもう誰か思いついてるよなあ、と思って調べたら、やはりそこら中で言っている。悔しいが先願主義だろうから、ここで使うのはやめておく。(使ってるやん)
 
 ここで引き下がったら、サイファイ・バカ一代の名折れ、なにより男が立たぬ。必死に考えて、きっと最終巻の第六巻は「新刊コーナー」にまだ放置されているのではないかと思いつき、案の定そのとおりだったのでゲット。零封だけは免れることができた。ついでに、予定になかったディックの「宇宙の眼」もオマケで買っちゃったけど。
 
 Amazonなんて影も形もなかった、あたしのガキの頃。書籍一冊買うのにも、こんな感じですったもんだ、どたばたしていたのに違いない。それだから、ディックの作品を「読んだ」記憶はさぱーり残っていないのに、「買った」記憶だけは仔細鮮明に残っているのだろう、と気が付いた。
 
 エーコか誰かが言っていたが、稀覯本ハンターたちは、対象の書物を入手するまでの間は命を懸けるが、入手した瞬間に興味は薄れ、大抵そのまま書庫行きなのだそうだ。もちろん、読んだりしない。そもそも読むために集めてるのではないから。下手に中身を眺めようとして、帰国の機内でパラパラやっていた手に入れたばかりの稀覯本を、うっかりそのまま置き忘れたハンターもいたそうだから、笑い事ではない。
 あたしの場合、買っていたのは稀覯本でもなんでもないので、単純に読める以上のスピードで書籍を買い集めてしまっていた、というのが正しいのかもしれない。三つ子の魂(略、今やっていることが、まさにそれだから。
 
 そうは言っても、注文したディックやレムの中古本が今後も続々と届いてくる。「銀河の壺直し」は、自分でも信じられないことにたった一日で読んだ。自分で自分を褒めたい。
 ところが、あいかわらず「んー、なんだろうこれ?」という結末だったので、巻末に収録されていた巽孝之氏の「評論」を参照しつつ、少し考えてみた。
 この巽氏の「評論」は、ディック没後すぐ、「ヴァリス」刊行後すぐに書かれたものだそうだ。あくまで「銀河の壺直し」の解題として書かれたものではあっても、ディックの世界全般についてなぞられ、まとめられている。このとき以降、取り立てて新材料が出ているわけでもないのであれば、これ以上なにか付け足すことがあるのだろうか、もう完成していると言ってもよいんじゃないか、と思うくらいの中身だ。
 古くはハイデガー、サルトルから、83年初版本刊行当時脚光を浴びていたはずのバルト、デリダ、ソンタグ(安倍総理関係ない)などポスト・モダンの旗手たちの言説まで含めて論じているので、それ以降の(ポスト・ポスト・モダンの)「不毛な」評論世界を考えたら、新しい知見なんて、そんなにあるはずもないのではないか。
 
 だから、あたしがこんなところでくどくど引用しなくとも、ご興味のある向きはそのまま読んでいただければ結構なはずだ。
 ただ残念なことに、調べると、この評論が転載されている評論集も、中古以外では入手不可能らしい。中古を入手することなく読もうと思ったら、全国の図書館所蔵情報を検索してツモを狙うか、最悪国会図書館まで出向いて行って閲覧するかしかない(複写して郵送してもらう手もあるが、費用がアホのように高いので、予算のある学者か研究者でもなければ、お勧めできない)。
 
 仕方がないので(なんで?)、巽氏のディック評を、かいつまんで紹介することにしたい。それは次回(記事数稼いでいます)。
 
 なお、おまけで買ったディックの「宇宙の眼」も、「読んだことがあるのかないのか」定かではなかった。牧眞司氏(ウクレレ関係ない)の解説をパラパラと眺めていたら、こんなことが書いてあった。
 この作品は1950年代には、すでにハヤカワ・ファンタジィの一冊として世に出ていた。ところが、ハヤカワが文庫を拡充しようとしていた時代(1970年代ですね)にも、とうとう文庫化されることはなかった。うかうかしていたらサンリオに翻訳版権を根こそぎ大人買いされ、手も足も出なかったのがその理由だという。
 そのサンリオ文庫では(他の多くの作品同様)、結局翻訳が間に合わず、本作もようやく86年に文庫化されたものの、直後にサンリオ文庫自体が撤退。既刊本全部が突然「レアもの」になった。
 
 つまり、牧氏曰くは「ハヤカワの怠慢でもなんでもなく」、食べきれない量の料理を注文して、あげく自分でノックダウンしてしまったサンリオが悪い、ということなんだろうけど、そうであっても、あたしから言わせれば「ダメなものはダメ」。結局、「うかうか」してたわけじゃん。
 
 でもまあ、今では信じられないことにサイファイ作品がふつうに売れていた時代に、このどたばた騒ぎ。ディック作品には限りませんけど、いまだ人知れず埋もれている作品は多々あるんではないのでしょうかね。「銀河の壺直し」の巻末にくっついているサンリオの既刊文庫一覧(その一部)を眺めてみても、もちろん(あたしが当時読んだ限りで)しょーもない、とっくに死んだ「サイファイ」シリーズも多数含まれていますけど、レムもあるし、スタージョンもあるし、生きている<サイファイ>作品で新訳・改訳で救済されずに、そのまま化石化しているものってたくさんありそうですね。そういえば(一覧にはないけど)ラファティのもあったな。
 
 ハヤカワがいまだに人様のせいにしているようじゃあ、この先もあまり期待できないでしょうけどね。
 つうことで、「宇宙の眼」は、とりあえず積ん読の山の中に、ポンと(それそれ、それがダメなんじゃん!)

«「主流」必ずしも「傑作」にあらず?