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2017年7月21日 (金)

怒りとはすべて義憤リターンズ

 「人間の怒りとはすべて義憤である」だけで、ご飯何杯でもいける。記事なんぼでも書けてしまう。どうせ誰も読んでいないから、何書いてもいいんだ。

 儲かってないから何してもいいんだ。(by 高信太郎)

 一応の結論らしきものは書いたのですが、どうもしっくりきません。もちろん何かの答えを出すことが大事なのではなく(出さないと、ごく少数しかいない読者ですら愛想を尽かしてしまうから、仕方なくまとめた)、問いの意味自体を考えることのほうがずっと大事だ、ということを忘れてはいけない。

 一番最初に書いたとおり、すべての憎しみが憤り(怒り)を伴うか、ちょっと自信がなかった。また「怒りと憎しみを混同してはいけない」みたいな説を紹介しました。三木清の「人生論ノート」からの引用らしい。三木清については、先の大戦末期に思想犯として投獄され、敗戦後も釈放されず獄死した哲学者だというくらいしか知らなかった。著作も読んでいない。というか今ふつうに読める著作はごくわずか。

 余談であるが、敗戦後の島国は、戦争協力者とみなされた作家・思想家をことごとく無視した。横光利一など、かろうじてまだ一部の作品が読めるのでましなほうだ。実際には戦争批判者であった三木も京都学派にひとくくりにされた。賛美者も批判者も、とにかく「戦争」に深く関与した者はことごとく「穢れ」た、アンタッチャブルになった。島国古来からの「穢・禊・祓」の発想が、敗戦という国難にあって強く出たのだろう。今であれば、核燃料発電になんらかの形で関与していれば、ことごとく「穢れ」ているとみなされるのと同じこと。
 一方で、戦中は国威発揚の軍歌などを手掛けていた作曲家は、戦後あっさり世界平和賛美の曲づくりに乗りかえて人気を博した。朝貢新聞については言うまでもない。融通無碍、うまいこと時流に乗らなければ悲惨な運命を辿るというのが変わらぬ真実。余談終わり。

 最近、上述の著作が書店でやたら目につくなあ、と思っていたら、某国営放送が特集番組を放映したのが理由らしい。国民から受信料集めて思想的な番組づくりに精を出していることについては、今は何も言わない。目次をみると「怒りについて」というエッセイもあるようなので、試しに買ってみた。 
 案の定、予定調和的にヒットした。まあ、そういうことなんでしょう。

 まず、怒りと憎しみについては、次のような感じだ。(原文があまりに簡潔、冗長さが一切ないため、ベタで引用せざるを得ない。ただし( )は引用者が追加)

「怒りは(憎しみに対して)より深いものである。怒りは憎しみの直接の原因となることができるのに反し、憎しみはただ付帯的にしか怒りの原因となることができぬ。」

「すべての怒りは突発的である。そのことは怒りの純粋性あるいは単純性を示している。しかるに憎しみはほとんどすべて習慣的なものであり、習慣的に永続する憎しみのみが憎しみと考えられるほどである。憎しみの習慣性がその自然性を現すとすれば、怒りの突発性はその精神性を現している。怒りが突発的なものであるということはその啓示的な深さを語るものでなければならぬ。しかるに憎しみが何か深いもののように見えるとすれば、それは憎しみが習慣的な永続性をもっているためである。」

 憎しみが「深い」という場合、実際には長い間続くことを言っているだけである(この時間的長さの議論は、実は重要)。怒りの「啓示的な深さ」とは、このエッセイが旧約聖書における神の怒りについての記述からはじまっていることに関連している。人間では認識できない秘密(つまり神秘)、超越的な本質(要するに神)に触れるような「深さ」ということ。それがどれだけ深いのか、何しろ底がわからないから、わからない。

 どうやらこの著作が世に出た時代(1941年は開戦直前)でも、今と同じように「怒りはただ避くべきものであるかのように考えられ」ていたようだ。しかし、「もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎しみであって怒りではない」。
「今日、愛については誰も語っている。誰が怒りについて真剣に語ろうとするのであるか。怒りの意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである」。目を疑うが、2017年にそのまま通用してしまう。少なくとも島国人は、この70年以上にわたって何も進歩していない。
「切に義人を思う。義人とは何か、---怒ることを知れる者である」。

 そうして、愛が、神の愛(クリスチャニティで言うところのアガペー)、理想に対する愛(プラトンのエロス)、肉体的な愛に区別されるのであれば、怒りのほうも、神の怒り、名誉心からの怒り、気分的な怒りという区別ができるという。これが怒りの深さを示している(憎しみについては、そのような区別はできないだろう)。
 神は怒るのであって、憎しまない。「神の弁証法は愛と憎しみの弁証法でなくて、愛と怒りの弁証法である。神の怒りを忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった」。
 
 名誉心については、このエッセイの直前に「虚栄について」と「名誉心について」というふたつのエッセイが掲載されていて、そちらから紹介するほうがずっと筋がとおるはずだ。残念ながら、ここでははしょっちゃいますけど、「嫉妬について」や「利己主義について」のエッセイと同じく、それらエッセイもいずれ記事にせざるを得ない。

 なかでも「虚栄心」については個人的思い入れがある。「虚栄心」とは、すなわち「ヴァニティ」(vanity)であり、"All is vanity."(すべては空(くう)。)とくれば、これは先に記事にした「メメント・モリ」、「カルペ・ディエム」と並んでバロックの精神とされる「ヴァニタス」(vanitas)に通じる。また「メメント・モリ」は三木と同じ京都学派とされる田辺元が提唱したことで知られる。こうやって、単なる思いつきの記事が次々連鎖して焼け太って行くと、手なり原理主義者の面目躍如というか、テトリス的、ぷよぷよ的至福の慶びです(笑)。ハットリスぢゃないから!

 なお、誓って言いますが、あたしのVanityというニックネームは、本当に単なる思いつきです。もちろん「虚栄心」という意味は知っていたので、エラそうにゲームのブログを書くにあたってちょうどいいかなと。いや、「化粧台」ぢゃねえよ!(でもあちらの美人モデルの名前だったのは理由にあったかなあ…もにょもにょ) 
 とあるMMO/MOで、メメントさんというプレイヤーとヴァニティでギルドを組んでいたとか、今から考えるとめちゃめちゃかっけー、(中二病的な意味で)大人っぽいなあ(当時、アホだったから気がつかんかった)。もう一人カルペさんでもいたらカンペキだったなあ(それでも、やっぱ気がつかなかっただろう)。

 閑話休題。怒りを三区分するところまででした。「神の怒り」については、ここで話題にしている「人間の怒り」ではないので除外します。「名誉心からの怒り」は、あたしの結論にかなり近いのではないかと期待が持てますよね。ところが「気分的な怒り」というのがちょっとひっかかった。これこそ、先に「ない」と結論づけてしまった、純粋な怒りのことを言っているのではないのか。

 引用文と、くだらない自分の話で長くなった。続くっ。

2017年7月20日 (木)

メメント・モリ

 筒井康隆先生の「敵」について書きましたが、セレンディピティというか、まあ時節柄当然だよなというか、こんな記事があった。
 
 http://www.sankei.com/column/news/170719/clm1707190006-n1.html
 
 竹内洋氏については、特になんの感情も抱いていない。「社会学の名著30」(ちくま新書)を、確か読んだっけ、と思ったら買ってもいなかった。それはどうでもいい。
 
 漱石の苦沙弥先生(というか、筆者も書いているとおり、漱石が苦沙弥先生)のくだりが面白い。カドフェスのカヴァー欲しさに、フェスの対象となる漱石の文庫は二年がかりで集めた。 もちろん読んでいない。特に「吾輩は・・・」は、若い頃読んだつもりになっているし、最近はP5でおなか一杯、というか猫ぢゃねえし。
 
 そして、筆者も書いているとおり、この本こそ、「読んだことがある」と言い張る人たちの記憶が(あたし含めて)めちゃくちゃ曖昧である恰好の例だ。だからこそ「良い小説」であると、「読んでいない本について堂々と語る方法」の著者も言っていた。
 
 うそ。というか「読んでいない」の著者が引用している「吾輩は」も、「薔薇の名前」など他に引用されている作品と同様、原作と異なるでたらめな部分があり、それこそ著者がこの本で言いたかったこと(読んだことがあると思い込んでる本にしたって、結局、読んですらいなかったり、忘れていたり、内容を脳内で自家熟成したりして、原典と色々違ったりするのが普通、というかそうでなければならない)のメタ的な実現だ。そういうトリックもわからず、レヴューで「内容が違うのはけしからん」とかブチ切れてるのがいるから、受ける。
 
 筒井先生も、先日「サピオ」かどこかで、「安楽死も認めてくれないのなら、いったいどうすればいいのだ」と、いつものネタをぶちかましていた。
 
 こういう話題って、死の恐怖を克服できない、立ち向かえない、そういう訓練も一切してこなかった団塊の世代向けに、とても良いビジネスになりそうだね。とあたしが気づいた頃には、もうとっくに目ざといのがはじめているのだろうけど。いや幸福のなんとか関係ねえし。あれ生きてる人でも霊を呼び出しちゃうから。
 
 「英会話もできないようじゃお前ら生きていけない」などの、よくある「恫喝」商法ではなくて、「うかうかしていると、お前らおちおち死ぬこともできない」というのはなんていうんだろう、threaten、「脅迫」がベースなのは同じだけど。メメント・モリ商法? この言葉は、若い人たちのほうがずっと馴染みがあるという皮肉。
 
 最近、都内ではブリューゲル一家とか、ボッシュ(ボス)とか、「クリスチャン的死後」をよく描いた作家の絵画展をしょっちゅうやってるんですね。先日上野にブリューゲル(パパのほう)の「バベル」(ちっちゃいほう)を観にいったら、おまけで、ネザーランド(厳密にはちょっと違う)繋がりで、ブリューゲル・パパが影響をうけたとされる、ボッシュの絵も一部かかっていた(大して有名ではないやつ)。
 
 ボッシュについては、以前から射程距離に入っていたわけじゃないけど、ラカン先生に関する本を読んでいたら、突然登場してきたので急に興味が湧いた。
 今やってるボッシュ展は観に行きたいけど、場所が渋谷結界内なんで、同行する巫女の都合がつかないと入れない。「犬夜叉」かつうの。(いや、実際そうなんだけど) 
 
 「バベル」はひどかったなあ。係員のば・・・、女性の「立ち止まらないでください!」連呼がうるさすぎて、かつ、同調圧力に弱い島国のみなさんが絵の前をマラソンみたいなスピードで通り過ぎていく。あたしと連れ(いつもの巫女役だが上野に巫女役は必要ない)なんか、あきれてしまって、立ち止まって鑑賞できる場所にずっといたのです。でも絵からは結構遠くて、「作品と同じ部屋にいた」くらいしか言えない。みな、アホですよ。あれで「バベルを鑑賞した」とか言っちゃいけません。「バベルと同じ部屋にいた」と言ってください。
 
 ボッシュ展はそうではないと願っているのですが、んー、行けるのは夏休みになりそうだ。
 

2017年7月19日 (水)

人間の怒りとはすべて義憤である。(4終)

 ケーシーは復帰したし、ほおっておくとFFXII/TZAを猿のようにプレイしてしまうし、そうこうしているうちにDQXIは来てしまうし。YsVIII? 忘れた(笑)。
 
 これ、いい加減に締めないと、本当に「白鯨」(Moby Dick)とかに手を出してしまいそう。いや、ボンゾ@ゼップ関係ない。左翼文芸体制派の岩波・朝貢新聞ファンあたりから、既存体制の転覆をはかるテロリスト扱いされて、ものすごい勢いでヘイトくらってるらしい光文社新訳古典文庫も、まだ出していなくてよかった(メルヴィルの他の著作はちょくちょくカヴァーしているようですけど)。あったら買っちまったぜ。ほとんどこの文庫のためだけに、Amazon Unlimitedもはじめようかと思案中。
 
 この記事書き始めてから、自分自身は「怒り」があまりこみ上げなくなってきた。そうであるべき瞬間にも、何か、「はて、この怒りらしき感情はどうかな?」という分析的な立場で事態を見るようになったと思う。いや、それでも怒りがゼロなわけじゃないですよ。なんでこの程度で涅槃の境地に行けるのよ。
 
 あたしがひっかかってしまった文章を再掲。
 
「ところで、人間の怒りとはすべて義憤である。つまり単純な感情のなかにも、世界解釈の全体系が入り込むのだ」(太字は原著では傍点)
 
 まあ、答えは最初から見当ついてたんですよ。
 
 「怒り」の定義も難しいですけど、一般的な「自らに危険が及ぶ、危険にさらされたと感じたときに起因する感情」というので、やってみましょう。
 家の中で、不覚にも階段や家具の角などに足の小指をしこたまぶつけたとき(小指を折っちゃった人も先日いた)、「きしょうめ!」とか、叫んじゃうのも「怒り」なんでしょうか。そうなんでしょうね。少なくとも自分の身体が危険にさらされたと感じたんでしょうから。このどこが「義憤」なんだろう。
 
 これは例がわかりにくかったかもしれない。では電車から降りるとき、扉の開いたホーム側のどう考えても邪魔など真ん中に立ってスマホしてる女。もう目撃するのが二回目だから、やつにとってはそれが生活習慣になっているのだろう。真っ先に出ようとしているあたしは、当然怒りますよね。
 さて、この怒りはどうか。「降りるあたしにとって、すっごく邪魔!」だから怒ってる。この場合の「危険」とはなんでしょうか。最悪その駅で降りられなくなる? 詰まった出口で後ろから押されて突き飛ばされる?
 違うでしょう。少なくとも身体的な力関係でいったら、突き飛ばすのはどうみてもこっちだ。
 
 「そんな真ん中に立ってたら、邪魔で(他の人の)迷惑なんだよ!」
 
 善良なる一般市民の皆さんはこうでしょうね。あるいは「マナーやルールとは違う」とか? そうか? 故・談志師匠が「出入口っていうくらいだから、出るのが先なんだぜ」と苦情を言わなければならなかったくらい、先にずかずか乗ってくる奴多くないか? もう昭和の頃からそうじゃなかったっけ。
 
 自分ファーストのあたしがこう言ったとしたら、100%嘘です。「他の人」なんて知ったこっちゃない、一切関係ない、社会のルールなんて自分にとって有利だから守るだけ、と心に誓っているあたしが、そんなこと言うわけない。
 
 危険にさらされてるのは、社会のマナーでもルールでもない。
 一刻も早く電車を降りて、一刻も早く自宅に帰って、口開けてただの暇つぶしのFFXII/TZAでもプレイしようとする、またはこうやって誰の役にも立たないブログ書きながらくつろごうとする、悦に入ろうとする、あたしの「権利」だ。それが一秒か、二秒かの間、なんの理由もなく不当にも妨害されたのだ。あたしにとっては、天文学的な膨大な時間(a gigantic amount of time)のロスだ。
 
 著者が「世界解釈の全体系」と呼んでいるものは、おそらくこれだ。
 
 「マナーやルールが―っ」とかすぐ言うば、もとい、ご婦人たちは、それによってご自分がジ・アルティメイト・ピースキーパー、世界平和の究極の護り手を日々担っていると信じているかもしれない。燃えない(燃やさない?)ゴミの日に違うもの出してる近所のあんちゃんとかを、ものすごい勢いで人非人扱いして糾弾するのも、自分が地球環境のザ・ラスト・ガーディアン、最終守護者であると心底そう信じているのかもしれない。余談ですが、都内の公的焼却炉は、たいていのもの燃やせます。いや日本刀とかダメよ、あれいっぺん焼きが入ってるし、って冗談ではなく捨ててるのがいるのよ、奥さん。いっぺん最寄りの焼却工場に見学行ってみるといい。
 
 それはそれで、どうぞご自由に(いや日本刀捨てる話ぢゃねえよ)。ザ・ラスト・パラディンでも、ゴール・キーパー・エンジェルでも、なんでも思ってるのは自由だ。
 先にもちょっと書いたけど、そういった道徳とか倫理に無関心な、「マナーもルールも知ってるけど、だから何?」と言うやつらには、まったく意味がないのだ。またはあたしのような「自分に都合がいいから守る(ふりをする)」利己主義者にもたいていは意味がない。つまり、自分(ご婦人たち)がそう思っている、信じているから、世界のすべての人たちもそう思っている、信じているはずだ、いや、そう信じなければならない、という確信は、この手の種類の奴ら(あたしを含む)には、なんの意味もない。
 
 だから「義憤」を、「道義に外れたことや、不公正なことに対する憤り」という辞書的意味に解釈してしまうと、上の文章はユニヴァーサルなテーゼではなくなってしまう。道徳・倫理の存在を知っていて無視する、または自分の都合の良いときだけ利用する連中にも当てはまる道義、すなわち「正義」に基づく怒りでなければならない。
 それが、善良な皆さん大好きな「自分の権利を守る」というやつでしょう。権利も(正義も)世界解釈があって初めて成立する発想ですから。
 
 いかなる怒りも、自らの危険を招く事態によって引き起こされる。とすれば、その危険とは自分固有の権利への「侵害」のことでしょう。
 一見すると独りよがりな「私憤」でしかないような怒りさえ、この「権利保護」という「正義」の文脈に翻訳されて発せられれば「義憤」となる。山椒魚の「独善」(self-righteousness)も、犍陀多のそれも「正義」だ。当事者本人の世界解釈からすれば。いやどっちも怒ってはいなかった(悲しんでいた、パニくっていた)けど、仮に「怒っていた」と解釈する人がいたってかまわない。
 
 家具にしこたま足をぶつけたときの「怒り」は、誰もが当然保護されるべきだと信じている「身の安全保持」という権利を侵害されたということに対して発せられる。なぜこんなところに家具があるのだ(置いたのお父さんでしょ)、おれ様の自由な通行権を妨害されたある! 仕返しにお前の海にも勝手に入るある、いい気味ある、悔しがればいいある!というのも似たようなものだ。人間は、自分が相手に一番してやりたい一番得意な仕打ちは、相手も当然のようにやってくるだろうと思い込んで、先取りして怒る。
 
 最後まで引っ掛かってたのは、でも原始人とか、犬とか猫とか熊とかみたいに自ら(または種、すなわちわが子)の生存を賭けた、純粋な怒りを覚えてたんじゃないかなあという点でした。これも、引用文を読み直せば「人間の」と断っている。「世界を解釈する(できる)人間」のことですから、当然ながら言語によって思考する、伝達することができるという前提です。原始人はあたらない。人間とは言語を操る存在のことである。トートロジーくさいけど(当然そうなんだろうけど)、言語がわからなければ、世界を分節して理解することもできないから、ここでは定義上人間ではない。また「義憤」にかられるのが湧くといけないから(利己的に、自己防衛的に)言っておくと、知的にチャレンジングだから「人権」がないなどとは、誰も一言も言っていない。
 同じように、言語未発達の幼児もあたらない。ロリポップを取り上げられた幼児は怒るんじゃなくて、泣く。悲しむ。山椒魚とか、お釈迦様のように。
 
 まあ、この場合は井伏鱒二も芥川龍之介も、私小説的なもの、無頼派的なものを嫌い、あげく世間体にがっちがっちに固められてしまっていた、「怒ってはいけない、紳士的ではない、大人げない、品性下劣である」という世の倫理的な雰囲気に縛られていたということでしょうね。前者は太宰治が(遺書で)、後者は福田恒存が(論文で)、そう喝破したように。 
 
 中途半端だけど、とりあえずはここまで。
 

帝国の逆襲か、新しい希望か。

 週末、FFXII/TZAを口半開きでプレイし続けてました。プロット・シナリオを、こんなにも"Star Wars"シリーズ(エピソード4-6及び1くらいまで)からパクってることについては、以前は気がつかなかった。つうか、ぶっちゃけると「まんま」です。

 オリジナルのPS2版(2006)は、旬を過ぎてからだけど、わざわざ液晶画面(ブラウン管TVはもう壊れてた)にアップストリーム・コンヴァーターで繋いでプレイした。それでも画面は相当しょぼかった。そのせいか、アルティマニア全部買ってる事実はあるのに、内容の記憶が断片的にしかない。もしかすると、一度も最後までプレイしなかった疑惑さえ湧き上がる。
 今回、PS4でプレイすると(フェイシャルは普通の意味でも「どうかなあ」と思うけど)、さすがに画面がしょぼいということはないので、それが理由でやる気が失せることはない。ただし、ダラダラしたコンバットに辟易した記憶があって、それは今回もあまり変わらない。長時間プレイしていると、寝落ちの危険がある。「せっかちな人は倍速・4倍速にできまーす」というのは、「改良」ではなくて開発の敗北ではないのか。

 BGなどのインフィニティ・エンジン・ゲームで用いられた簡易AIの発想をパクリ、今度はMLがDAOでパクり返したのではないかと思われる、簡易AI(ではなく実際にはシークエンシャル)ガンビット(ギャンビット)さえ、せっかくのプレイ効率化の仕掛けなんだから、もうちょい工夫してほしいと思った。(「余談だが」と、書き始めたらとてつもなく長くなったので、別記事にとばす)

 とにかく、"Star Wars"をここまでパクってしまっているのは一体どうなんだろー、スクエニ減退期を象徴する作品というのにもやはり理由があったのかなー、と思ってしまった。

 だいたいのオタクは、Star Warsシリーズの中ではカーシュナーのエピソード5を推す。最初、その手の議論には「なわけないだろう、やっぱルーカスのオリジナル、エピソード4だろう、低予算で画像しょぼいけど」と反感を抱いていた。だいたい「暗い」トーンの作品が名作だ、名作とは「笑わない」中身のものだというバイアスがかかってるんだよ。それもクリスチャニティー的罪悪感の発現なんだよ、挫折があるから青年は成長するという、某国営放送的「青年の主張」なんだよ。
 そうやって喧嘩腰で見直してみて、まー、やっぱカーシュナーは上手いねとさくっと宗旨替えした。10秒以上続く場面がほとんどない、ものすごいテンポを維持していながら破たんしていないとか、監督の職人芸については今までも色々書いた。でもシナリオもいいんです。スター・デストロイヤー同志のニアミス・シーンなんて、あまりに素晴らしすぎて、意表をつきすぎていて、「やられた!」と今でも思ってる。

 そして任務失敗の都度、ベイダー卿の手で次々と処刑されていく帝国艦隊の提督や艦長たち。信賞必罰、どんどんリプレイスされていく。まるでアメリカンの大企業か、誰かの大統領の政権か。もっとも、米軍ちうのは昔から信賞必罰の組織なんですけどね。某都知事が、本と言えばそれしか読んでいないらしい「失敗の本質」によれば。
 最後のシーンもいいですねえ。ルークたちを逃がしてしまって、当然自分も処刑されるだろうと、卿の様子を窺って待ち構えている(最後の)提督の観念した顔。(彼も、エピソード6でスーパー・スター・デストロイヤーとともに宇宙の塵となって果てますが)

 まあ、そういうことです。BioWareのアラン(フリン、BioWareモントリオール・スタジオGM兼BioWare副社長)が職を辞した。
 ME3リリース後に「一身上の都合」で同社を退職していた、元クリエイティヴ・ディレクター(最後にはエグゼクティヴ・プロデューサーまで出世したかも)のケーシー(ハドソン)がアランのリプレイスとして約三年ぶりに復帰した。(アランは副社長でもあったようなので、それも引き継いだとなると、ケーシーは退職時より格上として復帰したことになる。

 アランは同社勤続17年。ME:Aの業績不振・大赤字の責任をとった、あるいはME:Aの評判が悪くて「人前に出るのが、もうやんなっちゃった」という以外に理由がないでしょう。むろん、外からはわからない。
 ケーシーも退職したときは勤続10年以上であった。開発中だったME3のエンディング・リーク問題と、それに伴い改変された「信号機エンディング」への「自称ファン」どもの囂囂たる非難を受け、責任をとった、または「やってられるか」と匙投げた、あるいは「自家用機飛ばしているほうがずっと楽しい」と思ったか、それはわからない。

 FFでもDA/MEでも、あたしを含めた部外者たちは、作品の出来が悪いのは「プロット・シナリオが悪い」からだと、一番わかりやすいところを責める。きまってライター衆を責めます。あー、FFのあの、シナリオに口出すキャラクター・デザイナーはあたしも許さないけど。
 でもライターなんて、マネジメント上ではぜんぜん下層なんですよね。単なる一デザイン部門。リード・デザイナーのしもべ。
 やっぱ、ディザスターの責任とるのはトップなんですねー。

 さてケーシーは、果たしてMEのサルベージのため復帰したのでしょうか? クオリアンのアークとか難破船になってるし。いや、それよりも何よりもフランチャイズ全体のサルベージが必要だけど。
 それとも、退職前には自分でお膳立てまでしていたという「Anthemやらせろよ」と、ベイダー卿ぢゃなくてEAマーケにねじ込んだのでしょうか。
 そして、スタジオGMということは、Anthemのみならず、DAシリーズにも責任を負うということでしょうか?
 SWTORは、たしかオースティン・スタジオが担当なんで、モントリオールとは独立したマネジメントがあったんでしたっけ?
 SWTORごめん! DAには新しい希望がもてそうだわ!

***
(After choking Captain Needa to death)
Apology accepted, Captain Needa.

You have failed me for the last time, Admiral! Captain Piett?
Yes my lord?
Make ready to land our troops beyond their energy field, and deploy the fleet, so that nothing gets off the system.
(Beside Piett, Admiral Ozzel falls over dead.)
You are in command now…, Admiral Piett.
Thank you, Lord Vader.

Yes, Admiral?
Our ships have sighted the Millennium Falcon, Lord. But it has entered an asteroid field and we cannot risk…
Asteroids do not concern me, Admiral! I want the ship, not excuses!

----- The Empire Strikes Back (1980)

2017年7月18日 (火)

DA: Knight Errant #3

 先の記事の結末をまとめるのに時間がかかりそうなので、気晴らしにこれでも。

 "Knight Errant"の一巻目、二巻目は、Dark Horse Comicsのトップに、横長のバナーが用意されていた。今回はあたしが見逃した? あるいはそういうPR方針? それとも、やっぱ売れていない?

Ke3
 この酔っ払いのおっさんが何者は、この際あまり関係ない。

 ゲイダーさんが言っていました。自分が創造したキャラクターを、他人が勝手に(二次創作などで)いじるのを見ていると、どうしてもイライラしてしまうそうで。そうは喋らんだろう、そうは動かんだろう、ということですかね。

 これも、一種の「嫉妬」でしょうね。「うちの子になにさらしてくれんねん!」というだけなら「親の愛」なのだろうけど、どちらかと言えばむしろ、「娘を(息子を)他所の男(女)にとられた父親(母親)」の憎悪に近いんだろう。あー、インクルーシヴィティには配慮していません(笑)。

 DAI開発時のゲイダーさんは、リード・ライターの仕事があまりに多忙で、自ら小説"Asunder"で創造したキャラクターであるコール(の台詞まわりのシナリオ)を、パトリック(ウィークス)に引き渡さなければならなかった。そのときの「苦悩」ぶり、「狼狽」ぶりが、手塩にかけて育てた子をよそ様の家に出す感じそのものだったので、思わず笑っちゃいました。

 このコミックのシナリオは、DAのライターが書いているのではない。今回のヴァリックは、本編(担当はゲイダーさんではなくメアリー)や、ゲイダーさんがコミックで描いた人物とは、ちょっとばかりキャラが違い過ぎる気がします。

 表紙のナイトのおっさんを、"Muscles"と綽名で呼んでいるのには受けましたけどね。

 ずばり、「脳筋」!

 それよりもなによりも。

Ke32_2
 このお方、どちら様?

 いや、オリージャンのドワでもフェラルダンのおっさんでもねえよ。
 アーマー見りゃ分かんだろうが、つうか、これってコスプレイヤー? 

 この、イザベラが鏡台代わりに使ったという、ぴっかぴかのシルヴァー・アーマー。 
 おまた付近にアンドラステのお顔がついている。
 スタークヘイヴンのプリンス(公王)、セバスチアアアン・ヴェイル殿下に決まってるではないですか。(スタークヘイヴンは、領主がプリンスのプリンシパリティ国家)

 どこのヴィジュアル系バンドのヴォーカルかと思いました。キャラ違い過ぎる・・・。

 とにかくこれで三巻目。ふつう全六巻くらいでしょうか。この手のコミックのいつものノリで、物語進行はまったりもったり。一体全体、何かのクライマックスに辿り着けるんだろうかと心配になってきます(うそ。実はなにも感じていない)。

 出オチかなーと思っていた、冒頭カークウォールの(元)騎士団長メレディスのピンクの像も関係あるみたいで、次巻が待ちきれませんね!(毎回毎回、リリースされたの気づかずに、しばらく放置してんぢゃねえのかい) 

***

Sebastian: You've been watching me all day. It's getting a little... distracting.
Isabela: Merrill's right. Your armor is shiny. I can see myself in it. Look!
Isabela: Shit. Oh, shit. Is that a wrinkle? Is that a wrinkle between my brows?
Sebastian: Um. I don't see—
Isabela: Hold still!

「今日一日中、君は私のことを見ていたね。ちょっと気になってしまうのだけど」
「メリルの言ったとおりね。あなたの鎧てばぴっかぴかだわ。あたしの顔がすっかり写ってるもの、ほら!」
「え、うそ、やば! これって小じわ? え、この眉の間のって小じわ?」
「ううーん、よく見えないけど・・・」
「ちょ、動かないで!」

***

Anders: Is that supposed to be Andraste's face on your crotch?
Sebastian: What?
Anders: That... belt buckle thing. Is that Andraste?
Sebastian: My father had this armor commissioned when I took my vows as a brother. Anders: I'm just not sure I'd want the Maker seeing me shove His bride's head between my legs every morning.

「その、おまたのやつってアンドラステの顔かい?」
「何?」
「その・・・、ベルトのバックルのやつ。アンドラステかい?」
「父上が注文してくださったのだ、私が聖職に入るときに」
「メイカーがどう思うかあんまり考えたくないな、彼の花嫁の顔を、毎朝股の間でぐりぐりいじってる姿を見られたら」

 (新訳ブームらしいんで、過去記事参照せず、訳も新訳で(笑))

2017年7月15日 (土)

人間の怒りとはすべて義憤である。(3)

 すでに書いた通り、これっていつまでもダラダラ引き延ばせちゃう話題なので、どこかでいったん打ち切らないといけない。さすがに「白鯨」まで読み直していたんじゃあ、せっかく届いたFFXII/TAZをプレイする暇もなくなってしまう(つうか幻想水滸伝IIだってまだ終わっちゃいない)。
 
 芥川龍之介の「猿蟹合戦」について、よく読み直せばとても明快な構造をしていることがわかります。「山椒魚」や「走れメロス」と違い、これは読んでいない(話を知らない)人のほうが多いだろう。いや「さるかに合戦」そのものぢゃねえよ! 
 
(余談:ところが最近とみに感じるのは、「さるかに合戦」とかあるいはイソップとか、あたしらの世代なら当然あらすじくらいは知っている、そういう寓話的な物語を知らない人が多数いるみたいなんだなあということ。その分アニメとかラノベとかファイナル・ファンタジーの物語で埋まってるならいいんですよ。ジャンプでも別フレでも構わない。「まんが昔話」である必要さえない。結局その手の物語の寓意なんてまず原型があって、それをずっと使いまわしているだけなんだから。
 そうじゃなくて、とにかく物語的なものを一切知らないのがいる。おそらく学校行ってない。行ってても口半開きで座ってるだけ? 倫理とか道徳とかを知りつつ、逆張りかけてくる悪党ならまだわかるのです(おれおれ詐欺なんてその典型じゃないですか)。対処のしようがある。そもそも倫理・道徳の存在自体を知らない相手は、もうどうにもしようがないのではないか。殺す以外。つうか、そういうのが人を殺して回ってるわけだけど。余談長い)
 
 芥川の「猿蟹合戦」は、あの「さるかに合戦」の後日譚として描かれる。裁判の結果、復讐を遂げた主犯の蟹さんが死刑、共犯者一派が無期徒刑となってしまい、残された蟹さんの家族たちも世間から後ろ指刺され、見るも無残に身をやつしてしまうという物語。(そして残された蟹の末子が、再び別の猿との確執を繰り返すのではないかと仄めかすところは、やや蛇足気味)。
 こんな場面があります。
 
 その上、新聞雑誌の輿論(よろん)も、蟹に同情を寄せたものはほとんど一つもなかったようである。蟹の猿を殺したのは私憤の結果にほかならない。しかもその私憤たるや、己(おのれ)の無知と軽率から猿に利益を占められたのを忌々しがっただけではないか? 優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。―――と云う非難が多かったらしい。
 
 もちろん大正12年(1923)という時代背景を考えなければなりません。大正デモクラシー、「仇討ちはいくらなんでも古いよ」という発想はおそらくもう広くいきわたっていた。仇討ち(敵討)自体は、明治6年(1873年)にすでに禁止されています。
 
「人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固擅殺ノ罪ヲ免レス」(復讐ヲ嚴禁ス、明治6年2月7日太政官布告第37号))
 
 「殺人の権利は国家が、唯一国家(公権)だけが有する」という宣言ですね。国家は暴力を独占する。他に暴力を用いる存在がある場合、国家はその存在に対して激しく嫉妬する。昨今の島国における、体制とメディアの間の暴力闘争を見物していれば、こういうことも腑に落ちるのではないでしょうか。
 
 作中、「酒豪兼詩人の某代議士」だけは、蟹の仇討ちは「武士道の精神」と一致すると擁護します。その声はむろんアナクロニズムとしてかき消されてしまったばかりか、件の某代議士が、某大学獣医学部設立の口利きをした事実について、猿から強請られていたかのようなフェイクニュースまで飛び出してきた(嘘(笑)
 
 一般には「天下国家(猿)に君ら庶民(蟹さんたち)が逆らったって、殺されるだけだよ、意味ないよ」と読まれているようです。あたしはむしろ、それこそ芥川特有の倫理の顔をした仮面だと思う。共産主義やテロリズム批判でもない。商業会議所会頭の男爵はそういった「流行の危険思想」を批判しているものの、倫理学者は「復讐はよくない」と言い、社会主義者は「私有財産に固執する国粋会的反動的精神」と非難し、仏教某師は「仏慈悲の教え」を説教したかったと嘆く。安物の「藪の中」みたいになっちゃってますけど(笑)、つまりどの「権威」も調子外れな言説を垂れ流していると辛らつに茶化してしているのでしょう。
 
 実のところは、なにやら善かれと思って(それこそ猿真似で)輸入した「デモクラシー」なるもののおかげで、仁義も情も道理までも、何もかも押し殺されてしまうんだなあ、嫌な世の中になったもんだな、という慨嘆ではなかったのか。
 
 まあでも、それを解釈するのは本題とは関係なかった。問題は、「人間のすべての怒りは義憤である」というテーゼに対し、ここに「私憤」があるではないかと言えるかどうか。
 違いますね。蟹さんたちの怒りはもちろん「義憤」です。少なくとも侠気(おとこぎ)、義侠心から参加した蜂さんとか臼さんとか(芥川版では)卵さんとかにとってはそうだ。デモクラシーを輸入して近代化を推し進めたい、暴力を独占したい国家にとって、そういう義憤は邪魔で仕方がなく、「私憤」に貶め、葬り去るしかなかった。国家ばかりか、本来批判的立場に立つべきメディアも反体制派も、デモクラシーという美酒に酔ってしまったのか、毒にあたってしまったのか、口をそろえて復讐はいけないという。もっといえば、蟹さんたちの行動に対する「義憤」にまみれてしまう。
 
 どうやら、いつまで探したって、反証なんて見つからないような気がしてきました。
 「山椒魚」の蛙への意地悪は羨望からくる「怒り」によるものではないかと書きました。かりにそうだとしても、それのどこが「私憤」なのか。山椒魚が「お前だけいい目見やがって」と思った時、実はそれは「義憤」なんですね。「おれではなくてお前だけが」という発想の裏側には、もうしっかりと「世界解釈」が忍び込んでいる。
 
 「走れメロス」の主人公が激怒したのは、どこからどう見ても「義憤」に見えます。それでは、あの最後の数行はなんだったのか。
 主人公の(タロット(タロー)でいうところの)「愚者」ぶり、「道化」ぶり、「世間知らず」ぶり、「能天気」ぶり、寺山修司曰くの「エゴイスト」ぶり、「ナルシスト」ぶりを、作者はやはり恥じるしかなかったのでしょう。風聞に流されて勝手にブチキれ、妹の結婚式を危うく台無しにし、勝手に友人を身代わりとして巻き込み、あげく、もうここまで頑張ったからいいかあ、と帰還を諦めかける。理不尽な死の恐怖に耐えていた友人に対して「一発殴ってくれなければ途中で諦めかけた自分の気が済まない」というのは、これは明らかに主客が逆でしょう。「君の気が済むまで存分に殴れ」でしょう。
 だからと言って、主人公の怒りをエゴイスト(ナルシスト)の「私憤」とまで言いきるのは無理がありますね。無知故の「義憤」は、今だってそこら中に見かけることができますし。むしろ、すべての義憤は、無知故に湧き上がるのかもしれない(笑)。
 
 「人間のすべての怒りは義憤である」とは、実際どういう意味なのか。次回には終わらせたい。
 

人間の怒りとはすべて義憤である。(2)

 そもそも「義憤」とは何ですかみたいな初歩的な質問は、どこぞのチ●玉ブクロとやらにでもしてください。ここでは受け付けません、つうかこのブログ記事読んでも意味ないよ、と言いたいところではあるものの、いきなり話が進まなくなっちゃうのでごく簡単に。
 読んでその通り「義により憤る」こと。辞書的に言うなら「道義に外れたことや、不公正なことに対する憤り」のこと。
 私憤と公憤と言った時の、公憤(社会的な悪に対する、自己利害を超えた憤り)に近い。私憤はそのまま「私利私欲など個人的な事柄について個人的に抱く憤り」。ま、そんなに綺麗に分けられるわけないんだけど。
 
 前回の引用文の著者が「義憤なるものを理解できず反感を抱いた」理由も、書いてしまったようなものだ。ぶっちゃければ、道義や道徳に外れたこと、すなわち不義非道、不道徳なことに対する「憤り」をなぜ抱かなくちゃならんのか、その意味が子供のころからずっと分からなかった、今(出典の書籍を執筆した時点)でも分からないままだということ。
 あたし自身は、この著者の言いたいことはわかる。でも、それが悩みであったという点はまったく理解できない。なぜなら子供のころから、そんな義憤(という呼び方は知らなかったものの)なんて、最初から抱く必要すらないと達観していたし、私憤であってもなんであっても「怒り」は抱くもの、大事なものだと思っていたから。喜怒哀楽を押し殺すみたいな発想自体が最初からなかった。
 
 だから著者が「自分はこんなことに悩んでいたけど、押しつけられた道徳にどっぷりつかったお前らにはわからんだろう」と言いたいことはわかるが、残念ながらこちらはそこで想定されている「お前ら」ではないので、「何言ってんだろ、この人」と思う。ここは本題ではないんだけど、だいたいの人が勘違いするから書いておきます。
 問題は、「人間のすべての怒りは義憤である」かどうかだ。
 なわけないんじゃないのか、先の記事にも書いたとおり、「怒り」は身の危険を察知したときに湧き起こる感情であるとしたら、義憤ではない怒りだってあるんじゃないのか。ここの部分は、著者が格好つけてさらっと書き流してみただけじゃないのか。
 
 反例を探そうとして、まず思い浮かんだのは、なぜか小説「山椒魚」だった。山椒魚は両生類であって人間じゃない? そこぢゃないでしょ。
 島国人なのに学校さぼってご存じない方は、チ●玉ブクロに質問してもらうとして、棲み処である岩屋から、からだが成長しすぎて出られなくなってしまった山椒魚は、そのことにブチ切れてたはずだよなあ、と思って新潮文庫にあたってみた。
 
(なお、詳しい方ご存じのとおり、この「国民的短編小説」として有名になった作品は、版を重ねる際に、作者である井伏鱒二が何度も内容を修正(推敲)してしまったことで、同業者たちからのものを含め、かなりの批判を浴びた。例のジョージ・ルーカスも"Star Wars"を「勝手に」修正して物議を醸しだしたのと同様、作品のauthorship(誰が創作したか)とownership(誰のものか)の間の問題につながる話。国民的または世界的に著名な作品となってしまったものに、作者本人であっても手を入れてはならないという、まあこれも一種の「義憤」に繋がるネタなんですけどねえ)
 
 ところが、劈頭いきなり下のとおり。
 
 山椒魚は悲しんだ。

 悲しんでたかあ。怒ってなかったかあ。んー残念。
 悔しさのため悪あがきして、全編読み直してみたが、ずっと悲しんでいる。涙を流し、神様に祈り、気が狂うほど悲嘆している。
 挙句の果てには、外を自由にとびまわっていた蛙に嫉妬し(いや羨望し)、蛙が岩屋に飛び込んできた折りに意地悪して、出口を塞いで自分と同じように閉じ込めてしまう。
 二年が過ぎ、蛙は飢えのために間もなく死ぬ様子だ。山椒魚が「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」と尋ねる。蛙が「遠慮がちに」答える。
 
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」
 
 怒ってないのかあ。
 
(いやでも、蛙の自由に羨望し、意地悪した原動力こそ「怒り」ではなかったのか。この点については後で)
 
 この最後の台詞のやりとりにいたく感動したという太宰治が、井伏鱒二に弟子入りを願ったのは有名な話(太宰が入水自殺の際、遺書に井伏に対する悪口を書き連ねていたというのも別の意味で有名な話)。
 あー、そうか。「走れメロス」があるじゃあないか。どうしてそちらから思いつかなかったのか。 
 島国人なのに知らない方は、もうこれ以上読まないでください。つうか、あなた島国人ぢゃないでしょ。
 
 メロスは激怒した。
 
 怒ってますね!
 でも、すぐあとにこう続く。
 
 必ずや、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。
 
 義憤やん。もう絵に描いたような、教科書どおりの義憤やん、これ。
 
(だが果たしてそうか? ではなぜ最後に、このくだりが用意されているのだろうか。
 
 ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」
 勇者は、ひどく赤面した。
 
 これについても、超難しいだろうけど、できれば後ほど)
 
 手がかりは意外なところにもあった。「私憤」を調べていると、芥川龍之介の「猿蟹合戦」が浮かび上がった。
 実は、芥川作品もずーっと頭の中でサーチしていた。いや、でもあの人の作品の登場人物って、基本的に怒らんしなあ。杜子春なんて何度キレてもいいはずなのに、最後までキレないし。地獄変の画師もそう(一瞬だけ、クライマックスで語り手曰くの「獅子王の怒り」のような形相にはなるのですが、これも「怒り」ではないかな)。
 しいて言えば「蜘蛛の糸」の犍陀多かなあ。と思っていたのです。
 
 そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。いったい誰に尋(き)いて、のぼって来た。おりろ。おりろ」とわめきました。
 
 これ怒ってんじゃないですね。動転してうろたえている。「喚く」理由はパニックでしょう。
 
(蜘蛛の糸を垂らされたお釈迦様は、犍陀多が再び血の池に沈むと、「悲しそうな顔をなさ」った。みんな悲しむんですね)
 
 「猿蟹合戦」については、読み直してみたところ、芥川の仕掛けを読み解くのに時間がかかりそうなので、次回にしましょう。
 
 でもまあ、ここまででもなんとなーく、ぼんやりと見えてきた感じがしますね。文芸作品に限るとしても、「怒り」自体が忌避されている。本来それがあるべき場所は「悲しみ」が取って代わるのだ。あー、これかなあ。
 
 つうか、これやってるだけでも楽しすぎます(笑)。あれはどうかな、こっちはどうかなと脳内サーチする作品がどんどん広がり続けている。これって、いつまでも続けられる気がします。今のところ、まだ島国文芸作品に範囲を限定しているわけだから。あー、はいはい「怒りの葡萄」ね(笑)。義憤でしょう。「老人と海」のあのじいさんは決して怒らないですしね。ポウの著作は基本関係ないですよね。「白鯨」・・・。んー、そこまで読み直せと?(なに、嬉しさのあまりニコニコしてんだよ!)
 

2017年7月14日 (金)

人間の怒りとはすべて義憤である。

 いい歳になって、ようやく憎悪も嫉妬も平気で言える、書けるようになってきました。というか最近のここの記事を読み直すと、ほとんどその二つのことしか書いていない気がする。ME:Aの話はするな。

 七つの大罪には、「嫉妬」(envy)はあるけど、「憎悪」(hatred)はないみたい。代わりに近いものでは憤怒(wrath)。すべての憎悪が憤り(怒り)を伴うと言い切れるかどうか、ちょっと自信ない。(これについては後述)
 まあ、この「大罪」ちゅうのがカソリックの親父が考え出した(当初は八つ)、クリスチャニティーの教育宣伝素材だったことを忘れちゃいけない。せいぜいDAなどの洋物RPGでリファーされてるなー、と感動するくらいの使い道。あと観たことないけど同名のアニメか(「鋼の」でも使ってたかな)。フィンチャー監督、ブラピ出演映画("Se7en"、1995、忘れた、×)は・・・。あれはいったいどうなんでしょう。あちら(クリスチャニティー世界)では大絶賛されたけど。

 「嫉妬」と「羨望」は似て非なるものだそうです。色々な説明を読んでみたが、いまいち綺麗には分けられていない。だいたい、元となった西欧語(例えば英語のenvyとjealousy)の区別だってあちこちバラバラ(大罪の時代には区別さえされていない)。
 一般的には、「羨望」(envy)は、自分にない望ましいものを他者が手に入れているときに、その他者を羨(うらや)む心、怒りの心であるのに対し、「嫉妬」(jealousy)は、三者関係が前提で、自分の愛する対象が自分以外の存在に心を寄せることを妬(または嫉、ねた)む心、(その愛する対象を)憎しむ心だそうです。お、「嫉妬」も「超越」のように、類似意味の漢字二つを重ねた明治翻訳語なんだね。

 これに拠れば、TW3(及びそのプレイヤーたち)に対するあたしの感情は、まず「羨望」です。読売(G)のファンが広島(C)のファンに抱く感情と思っていただければよいかも。
 それだけではない。コアもカジュアルも、オタクもニワカも、猫も杓子もRPGファンが雪崩を打ってB社からあちらに乗り換えている姿に感じるのは、激しい「嫉妬」です。上の「嫉妬」の説明だけではいまいちしっくりこないけど、自分や自分以外のファンを、それぞれのタイトルやスタジオに同一視してる、って部分が抜けてるからかな。または、それぞれのタイトルを信仰対象(神々)と考えると辻褄があうか。

 であれば、メロドラマ的な陳腐な三角関係を想起したって、結局この両者が絡み合って、憎しみか怒りかが高まっていくということなのではないでしょうか。インクルーシヴィティに配慮して(笑)、性別等捨象して記述すると、「BはAが好きなのだが、AはCに心を寄せているらしい」とする。BはAに対して嫉妬するとともに、Cには羨望の感情を抱くのではないかしら。

 意外にも、「羨望」は原初的かつ破壊的であるのに対して、「嫉妬」はそうではない、という説もあるようだ。「羨望」はその対象を破滅させてでも望ましいものを手に入れる原動力となってしまう(玉座簒奪して王女も手に入れる、なんてわかりやすいですよね)。一方で「嫉妬」は「愛情」がその基盤にあるから(BがAを好きなことには変わりない)、相手を破滅させるまでには至らない。ほんまかいな、と思ってしまうものの、上の三角関係がもつれてBがAを傷つける、殺してしまうような事態に至るのは、「羨望」が忍び込んでいるからなのだそうだ。BがCを傷つける、殺す場合は「羨望」に基づく。これでもまだ、説明はいまいちだと思うけど。
 
 「羨望」は上述のように原初的な悪しき欲動であるという。原初的な感情として、他には「恐怖」と「怒り(憤り)」が(それ以上分解不可能という意味で)よくあげられる。この二つもどうやら絡み合っている。「怒り」とは、「自らに危険が及ぶ、危険にさらされたと感じたとき」に起因する感情であるという。「恐怖」とは、そうした「危険に有効に対処できないのではないかと案じるとき」に湧きあがる情動。極端な話、「死」は避けられないのでもっぱら恐怖の対象となる。この場合の「危険」は、直接的に生命・肉体に危害が加わるものだけではない。たとえば、リストラで人員整理の対象になる、インクルーシヴィティが阻害される、というような社会的・制度的なものも当然含む。

 一般に「怒り」に対してネガティヴな印象を抱きがちなのは、「憎しみ」と混同しているからだという説がある。それに従えば、「憎しみ」は個人的な負の感情であるのに対し、「怒り」は突発的で純粋なものであるから否定的にとらえるべきものではない、という。

 んー、前振りだけでここまできてしまった。ここで言われている「純粋な」怒り、"pure rage"というものが、DnDのババンやその他RPGのフィート(タレント)だけではなく、実際に存在するものだと信じていたあたしは、下の文章に触れて「おや?」と思って、どうにも引っかかってしまったのだ。

「ところで、人間の怒りとはすべて義憤である。つまり単純な感情のなかにも、世界解釈の全体系が入り込むのだ」(太字は原著では傍点)

 出典:「<子ども>のための哲学」、永井均、講談社現代新書

 つまり「純粋な怒りなど、ない」と読めてしまう。
 著者は倫理についての著作も多い哲学者だ。「義憤」というものについて理解しがたく、若い時から反感を抱いていたという。訓練によって多少は慣れてきたものの、本当の意味では納得していないそうだ。
 上の文章は文脈上は本題ではなく、至極さらりと触れられているだけである。残念ながら「義憤」が登場するのは他にたった一カ所しかないので、それ以外の手がかりは自分で探すしかない。

 知らないうちに長くなった。次回へ。

***

「つまり、ジョン・ウェインみたいに決然と飛び込んでいったってわけか。なぜそんなことをした? 何を考えていたんだい?」
「わからん。考えてなどいなかった」
「ほんとか? うちにいる学生みたいな口ぶりだな」
「ただ頭にきただけだ。そこに立ったまま、目の前で奴があの人たちを撃つのを見ているわけにはいかなかった。怒り・・・だった、純粋な怒り・・・。それでキレた」
「おれにはキレたりしないでくれよ、頼むぜ」

So, you just waded on in like John Wayne. Why'd you do it? What were you thinking, man?
I don't know. I wasn't thinking.
That's it? You sound like some of my students.
It just pissed me off. I couldn't just stand there and watch him shoot those people right in front of me. It was... rage. Pure rage... Just made me mad.
Here's hoping you never get mad at me, man.

                  -----  Patriot Games (1992)

改善に取り組んでいます。

 暇つぶしに最適なSNSの愉しみ方と言えば、ネットのニュース記事などの標題しか読まずに速攻コメント欄にとんで、やっぱ世の中にはバカまたは暇人がようけおるわー、とバカかつ暇人である自分のことを忘れて悦に入るってやつですね。もちろんそんなところに自分でコメント書くほどまでには、こちらはバカでも暇人でもありません。
 
 本来読者コメント自由のはずのネットニュースであっても、半日新聞に限っては以前から、自分たちのような知的選良が書いた記事には「有象無象、くだらねえ大衆(マス)の低能ゴミクズどもが、カスみてえな書き込みすんじゃねえ、おまえら頭が高い、無礼である、無礼千万極まりない!」とか言ってコメントをブロックしているのはご承知のとおりだ。言論の自由も表現の自由も、知的選良だけに与えられた権利のようです。そういうところの本社ビルに、早く北の飛翔体が着弾しないかなと、心から思う。

 さらには、団塊の世代のじじい御用達のMSNが、「破防法」じゃなかった、なんだっけ「共謀法」?施行とタイミングを合わせてFBのコメントとの連動をシャットアウトしちまった。日々FBで、時事放談気取りで、誤字脱字まみれの長文をひたすらお書きになっているご老人たち、ご高説を発表する場が奪われてお気の毒ですー(笑)。このままでは痴呆防止の手段も奪われることになる。ぼけたまま長生きされるとこっちの年金に影響するんで、さっさとこの世から立ち去っていただくことを強くお勧めする。

 一応MSN的には「ディスカッション機能をより便利にお使いいただけるよう、改善に取り組んでいます。」だそうだ。だったら半日新聞(とその身分をひた隠しに隠した関連サイト)の記事は読者様の選択によって最初から表示されないようにするとか、ただの一地方新聞ごときがでかいつらしてトップに記事掲載するのをやめるとか、ユーザーニーズ(笑)を満足させる方法がいくらでもあると思うよ。今や強いのはポータルサイトのほうなんだから、ハブられると収入減になって辛い作家でもない限り、自称知的選良、自称クオリティ・ペーパー(笑)にへりくだる必要なんかないですよ。
 
 筒井康隆先生は、世紀末2000年に発表した小説「敵」(忘れた、◎)で、無駄に長生きせざるを得ない独居老人(引退し、妻にも先だたれた元大学教授)が、有り余る時間、ネットを覗いて暇をつぶすしかない姿を描いている。長生きするにつれ貯金がなくなっていくことが当然のように予想されるから、ごく稀に得意料理のお蕎麦(!)を作って楽しむこともそのうちできなくなるし、暇潰しの手段はネットを覗くことくらいしかなくなっていくだろう(それも「タダ」ではできないのだけれど)。
 先生の作品中で読み返したくない小説ナンバーワン。独居老人の日常を細部に至るまで偏執狂的に描いてしまうパワーにも唸らされるし、その「日常」自体を想像(創造?)する力が圧倒的だとは思ったけど、あまりに身につまされる。

 この作品について、今さらっとネットを検索してみると、先生の作品では(例えば誰でもあげる「旅のラゴス」とかあたしの大好きな「驚愕の曠野」とかに比べると)相当地味な部類であるにも関わらず、多数のレヴューが残されていることがわかる。多くの人(読者)たちが、ただならぬものを感じた証拠だろう。ところが多くの人が、この小説は老人の「平和な日常」を描いていると書いているところに激しい違和感を感じてしまう。作品標題の「敵」という言葉に誘導されちゃったんだろうか。もちろん著者は、何が「敵」なのか作中で示すような野暮なことはしない。

 上に書いたように「いずれ貯金が底をつく」ことが確実で、ただネットを覗くしかなくなる(それさえもやがてできなくなる)、それでも生き続けなければならないことの、一体どこが「平和」なんだろうか?
 だいたい天下の筒井康隆が「平和」な小説なんて書くはずがない。

 FBあたりにご自分ではカンペキと信じているご高説を垂れ流していれば、きっと「幸福」なんでしょうね。「幸福」と「平和」をごっちゃにしてんだろうな。つうあたしだって、「幸福」を定義せよと言われたらうんうんうなることになるわけだけど。
 じじい(FBでご高説をのたまうばばあは不思議なくらいいない)だから、無暗に怒りっぽいのはわかる。なにしろ、あたしがそうだ。そして、すべての「怒り」は「義憤」なのだそうだ。本当はそっちの話題を書きたかったけど、次回。

おっかけ攻撃

 さすがに職場近くのコンビニで「ファミ通」を買うのは勇気がいる(笑)。
 FFXII(TZA)が表紙だったもんで(同じ時期発売の「電撃」については通販で予約しているが)、こら買わないかんと思い、まわりに知り合いがいないことを確認してそそくさとレジに。

 そんなもの「読み終わったらかさばるだけだから電子図書でよいではないか」と思う向きも多いでしょう。あたしも、いっぺん出張のせいでなにかのゲームの特典DLCコードつきの「電撃」を買いそびれてしまったとき(間違いなく水着かなんか関連DLC目当てだったと思う!)、ためしに電子図書で買ってみたことがある。とはいえやはり、見開きも目いっぱい利用して紙面が編集されているこの手の雑誌を、PCディスプレイの大画面ならまだしも、9から10インチ程度のKindleなどパッドで見るとか無理がありました。大画面ディスプレイに頼ろうとすると、ゲームしながら攻略記事を読むときにはパネルがある場所から動けなくなっちゃうし。さらにいえば紙版なら取り外して持ち運びできる「別冊」は別冊ではなかったし、(まだタルタロスの掲載もなかったので、どうせ読まないことが多かった)四コママンガの小冊子はサクッと省略されていたような気がする(現在はどうなっているかしらない)。特典DLCコードはメールで来るんだったっけ。

 予定ではTZA到着(昨夜配達)までに、例の「幻想水滸伝I&II」(Vita/PSP版)をフィニッシュさせ、余裕で待ち受けるはずであった。
 昭和ゲー(実際のリリースは1995&98なので「平成」に入っている)は短いから楽に達成できると思ったのが運のつき。単にここのところリア重だというだけではなく、昭和ゲー(厳密には略)ならではの、「知らなければそれまで、悔しかったらやり直し」的なむごい分岐はあるし、恐ろしいバグもきっちり残っているようだ。さらに悲しいことには中古で入手した当時の攻略本にめちゃくちゃな間違いもあり(美女チームのメンツに、なぜか超むさい野郎が入っている!)、あんまり使えない。ネットであてになるサイトもごくわずか。
 「I」こそまだしも40時間以内でベスト・エンディングをクリアしたものの、「II」は広大な地雷原を一歩一歩確認しながら進んでいく感じ(一回踏んだらそれまで)である。こちらのプレイ時間ももうすぐ40時間になろうとしているところで、クライマックスはまだまだ先のようだ。

 元祖「水滸伝」(知らない人にさすがに説明はいたしません)との共通点は、108星の人物を集める(一部勝手に集まってくる)ところくらいで、原作の軍師の星は本作でも軍師の星とか多少の関連性はあるものの、原作のように、主要登場人物がどいつもこいつも強盗殺人はじめとした極悪人のオンパレードにはなっていない。むしろ本作の本職の盗賊たちは、あんまし悪いことしないので影が薄い(笑)。んまあ、PS(後にSS)で発売するゲームだったんだから、「アーク・ザ・ラット」(以下ATR)ほど甘ちゃんではないものの、「倫理的には」こんなもんかなあ、という感じでしょうか。
 もっとも、当時(おそらくPS向けRPGタイトルが乏しかったので)結構プレイした記憶があるお子ちゃま向けATRシリーズ(PS版)ではなく、どうしてこっちをやらなかったのか、それ以前になぜ知らなかったのかと悔しい気持ちになったのは事実だ。

 「ファミ通」の総選挙(結婚宣言は関係ない)で、中間発表とはいえ「II」が上位にランキングされているのはどうせ一部信者の組織票なのだろうと思っていた。まだ「II」のクライマックスを知らない段階であるものの、これはちゃいますね。結構実力ぽい。だいたい、ほとんど信者しかプレイしないファルコムのタイトルがひとつもランクインしていなかったし。

 もちろん、リリースの時代が時代だから粗はいくらでも目につく。「II」ではだいぶ解消されたものの、「I」の装備つけかえには死にそうになった。108星全部がパーティー・メンバーになるわけではなく、20-30星くらいなのだろう。ところが全員にそれなりの装備(特殊能力を有する宝珠を含む)をいきわたらせることはお財布的にかなり辛いし(獲得金額が倍になる宝珠を入手していても辛かった)、途中必死にやりこんだって装備はどんどん陳腐化して無駄になっていく。必然的に6人パーティーに必須な高級装備だけ取り揃え、メンツが変わるたびに付け替えていくのだが、これが限りなく面倒。

 コンバット自体は非常にリズミカルかつシンプルであり、このゲームの美点のひとつ。それなりの装備を準備すれば都度ダメージを回復する手間すら不要だ。よって逆に、途中のボス戦以外は「裸」でいいじゃんとはならない。ダメージ食らってせっかくのテンポもリズムもすごく損なってしまうから。その代わりに、(梁山泊に相当する)拠点における装備付け替えで思いっきりプレイのテンポが損なわれてしまうのだけど。
 さらにいえば「別に30人いたって常時固定メンツでいいじゃん」ともならない。プロットごとに必須メンバーは異なるし、コンバットのもうひとつの美点である複数キャラの「コンボ」を試すためにも、入れ替えはかなり頻繁になる。一方、一度も登板機会を与えないまま終わるキャラも出てくる。

 「I」では108星のリストから勝手に消えてしまうメンツがいる。普段いるべき場所にもどこにもいない。直前の合戦で戦死してしまい、それに気がつかなかったか(そんなはずはないのだが)。ヒヤリとして、時間と手間が膨大にかかることを覚悟して、合戦前の状態からやり直してみた。後になって、消えていたメンツは単に偵察に出されていただけだとわかった。不在の間パーティーに選ぶことができないのはわかる。なんでリストそのものから消す必要があるのか、あたしにはさっぱりわからなかった。

 大軍どおしの合戦の表現にしても、「I」では「独眼竜正宗」(1988(昭和!)、ナムコ、FC)的な(最近では3DSのすれ違いゲーにもあった)「じゃんけん」を基本にした、わりと納得づくでキチンとケリがつく、ナイス&ニートないい感じのシステムだったのに、「II」ではなんだかよくわからないウォー・シュミレーションもどきにされてしまって、意味はわからないわ、やたら時間は喰うわ、あと多くの場合プロットには無意味だわ、「じゃんけん」くらいでちょうどよかったのに、ちょっと深追いしすぎ。
 
 とはいえ、こうやってわざわざ記事に書きたくなるということ自体が、そもそもの賞賛の証。
 努力目標としては、土曜日くらいにTZAに取り掛かりたいところですけどねえ。

 キャラ的に一番はまったのは、「II」に登場する女子D星(K星?)の彼女。おっかけ攻撃がかわいらしすぎます!
 

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